IFSMA便り NO.32

英国マリン・パイロットの21世紀

 

   このところ欧米の業界誌などでパイロットについての記事をよく目にするようになった。Nautical Institute の“Seaways” 2013年9 月号にThe Deadly Sins of the Master-Pilot Relationship というやや刺激的なタイトルの記事があった。11月号にはApplying reasonable perception と題しAt what point should the Master challenge the pilot’s decision and take over the conn of the ship?(船長はどの時点でパイロットの行動に異議を唱え、操船権を取り戻すのか)という記事もある。11月にはNautical Institute Cyprus 支部で“master + Pilot= 0 accidents? ” というセミナーも開催されている。
 英国・オランダ船舶職員組合“Nautilus International” の機関誌Telegraph には“Pilots warn over market forces” として欧州委員会が再度港湾サービスに市場原理を持ち込み水先業務もその対象となる懸念を表明している。また上述の“Seaways” の記事に関する会員からのコメントもあった。
 そんなおり、“21 Centuries of Marine Pilotage0The History of the United Kingdom Marine PilotsシAssociation0” という本の紹介があった。この書評がなかなか面白かったので、取り寄せて読んでみることとした。この本の表紙は荒天のなかパイロット・ボートが帆走している画で迫力がある。しかし内容はタイトルにもあるように英国パイロット協会の協会史で地味なものである。書いたのは1927年生まれ(86歳!)のCapt H.M.Hignett である。彼は11年間商船に乗ったあと1954年にマンチェスター/リヴァプール港のパイロット見習いとして働き始め、1960年に正式なパイロットとして採用された。在職中にパイロットや海事に関わる記事を多くの雑誌に寄稿し、1975年からは各国のパイロットの歴史について本格的な研究を始め、著書もあるとのことである。
 この英国パイロット協会の歴史は30年ほど前に出版されたが、1980年代の重要な改革を記録するために大幅に書き改められたものだそうだ。本書には2010年のパイロット協会総会の記録もあり、また2012年に出版されているので、大部分の原稿は著者が80代になってから書かれたものと思われる。さすがの著者も年のせいか、後半は単なる総会や委員会の記録などが多く、パイロットを取り巻く事情を知らないと理解しにくいし、もともと注釈や索引がないので読みやすいとは言えない。現在の英国のパイロットの制度や教育訓練の方法、資格制度、パイロットの年金や保険などの社会保障制度、船長とパイロットの法律関係、海難にともなう法的問題などにも触れられているが、深い考察がなされているわけでもなく、また現在の英国のパイロットの全体像を把握出来るようにはなっていない。しかし実質的なパイロット制度が誕生してから約600年の英国のパイロットの歴史を伺うのには貴重な資料というべきである。
 本稿では英国の水先制度を正面から解説するようなことではなく、本書に書かれたいくつかのエピソードをベースに英国の水先制度の一面を見ることとしたい。

 

 

パイロットの語源

 本書にはパイロットの語源についてかなり詳細な記載がある。著者は各国の水先制度を研究しているとのことでもあり、各国におけるパイロットの名称も当然研究の対象であろう。どんな職業であれ、その名称はその職業の由来や本来の目的や役割を表していて面白い。少々長くなるが紹介してみよう。
 日本水先人連合会のホームページにはパイロットの語源として次の囲み記事がある。
「パイロット(PILOT)の語源は、オランダ語のPIJLOOT で、PIJL(棒)とLOOT(測深鉛)を合成した言葉で、『水路を測深して船をすすめる者』を意味しています。一説では、ギリシャ語のPEDON(舵、舵板)に由来し、中世のイタリア語PEDOTA を経て、イギリスでPILOT になったともいわれています。」
 一方、本書によると15世紀以前にはPILOT という言葉は北部ヨーロッパでは知られていなかったようだという。多分古代の地中海に起源をもつ言葉で15世紀も終わり近くなって英国へ入ったと思われる。その当時の意味は水路図誌を持った航海者であった。北部ヨーロッパにおけるパイロットに該当する言葉は“lodesman” でこれは古英語の‘lad’=to lead or guide に由来する。これが西暦1000年から1300年の間にladman からlodesmanになったようだ。この言葉は英国では19世紀の中ごろまで使われたが、他の国では今も残っている。スカンジナヴィアでは‘lods’、ドイツでは‘lotse’、オランダでは‘loods’が残っている。フランスでは‘lomant’ もしくは‘lamans’ を使い、20世紀でも‘pilotelamaneur’が多く使われたという。英国では1513年のトリニティ・ハウスでは‘Pilottes and Lodesmen’ が同じフレーズのなかで使われた記録がある。
 スペイン人とポルトガル人が西暦1500年ちょっと前に地中海で用いられていたPilotなる言葉を英国に持ち込んだようだ。これは多分ギリシャ語の‘periplous’(peri は周囲を意味し、plous は航海を意味する)に由来することばで水路図誌を意味する。
 著者の推測では‘plous’ が‘pilous’ となり、さらに‘pilout’ に変化し、最終的に現在の‘pilot’ になったのではないかという。一方欧州の大陸側で言われているドイツ語系の‘peil’(sounding)’ と‘loot’(lead)に由来するという説にはこれを証明する何らの証拠もないという。

 

 

英国における初期の水先制度

 記録に残る英国の最初のパイロットは英国がローマに占領されていた西暦250年から300年ころのローマの軍属でマーカス・ミニシウス・オーデンシスであろう。彼の墓碑には第五軍団のパイロットと記されているそうだ。彼はオウス川のパイロットとしてヨークとトレント(いずれもイングランド北部の都市)間の航海を指揮していたようだ。
 英国では各地、とりわけドーバー海峡やロンドンのテムズ川でのパイロットの活躍は早くから始まっており、15世紀の初めにはパイロット料金なども体系化されてきた。しかし水先制度が整備されるのは各地にトリニティ・ハウスが成立してからの様だ。トリニティ・ハウスの性格は判りにくいが、もともとは船員の為の慈善団体である。それがいつか灯台や灯標などの航行援助施設の管理、水先制度の管理なども管轄するようになった。
 最初の水先制度に関する議会による法令は1717年の水先法である。これはパイロット業務を行うのには資格がいることを明記した最初の法令である。それに続く1732年の法令はトリニティ・ハウスの役割も明記し、これをもって英国の水先制度の公式な始まりと考えられている。
 しかし近代的な且つ包括的な水先法としては1913年の水先法まで待たねばならない。この間に画期的な技術革新があった。それは蒸気機関、さらにディーゼル・エンジンの実用化である。これが船舶の運航、ひいてはパイロット業務に与えたインパクトは測り知れない。また強制水先区についても多くの論争があった。
 この1913年の法令ではパイロットは英国国民で水先証明書(Pilotage Certificate)の交付を受けねばならない。その証明書の有効期間や条件等については各地の水先制度を管轄するPilotage Authority に諸般の権限が与えられている。さらに強制水先区の制定、水先料金の設定、また水先料金の先取り特権の設定も認めている。
 船長とパイロットとの法律関係については長らく曖昧であったが、1854年の商船法で初めて強制水先区域においては、船舶の指揮に関しパイロットに過失により生じた損害については船主はその責を負わない、と明示された。
 しかしこうした考え方も1913年の水先法では廃止された。この廃止の法理については本書から読み取れない。一船の運航の責任はいかなる場合であれ、船長にある、とする考え方であろうか。ともかく強制水先区を航行する船舶の船主は、その船舶により生じた損害に対しては責任があることを明記した。この1913年の水先法はイギリス船はもちろん外国籍船にも及ぶこととなる。このため強制水先人の過失による損害賠償について、船主は今までと異なり、免責されなくなった。こうして船主は強制・任意にかかわらずパイロットの過失に対して、一切責任を回避することが出来なくなり、パイロットの助言者的地位が確立されたと言える。この点に関しては現行の水先法である1987年の水先法でも問題が提起される。このパイロットの助言者的地位については、ドイツなどでは若干ニュアンスが違うようだが、ここでは調査も行き届かず後日機会があれば調べてみたいと思う。

 

 

現行の水先法(1987年)

 1987年の水先法は1913年の水先法を廃止した1983年に水先法をさらに改正し、SteeringCommittee on Pilotage の勧告なども踏まえ包括的な大改正をおこなった。これまでの水先法と大きく違うのは、各地の所管港務局(Competent Harbour Authorities CHA)に強大な権限を与えたことである。
 その内容は、管轄水域において強制水先区を定め、パイロットの定員を定め、料金を収受すること、善良でかつ技量と経験、さらにその港湾に関する知識を有する船長もしくは一等航海士に自船の出入港に関しパイロット免除証書(Pilotage Exemption Certificates PEC)を発給すること、管轄水域のパイロットの資格を認定すること、などである。
 しかしこの所管港務局はその権限が大きく、その一方パイロットの資格や教育訓練を管理する能力が十分とは言えず、制定当時から所管港務局の能力が疑問視されていた。それは1996年の英国南西部のミルフォードヘヴンにおけるリベリアの大型タンカーSea Empress号の座礁事故とそれによる大規模な海洋汚染により改めて問題視されることとなった。最初の座礁で約2,500トンの北海原油が、そしてその後の救助作業中に69,300トンの原油が流出したのである。そして最初の座礁事故の原因がパイロットにあることが明白となったのである。要するにこの大型タンカーを扱うに十分な経験を有していなかったとされている。
 1987年の水先法は2013年の海上航行法(Marine Navigation Act 2013)によって一部改正がなされ、所管港務局の業務を一部軽減することとなっているが、実効が期待できるのは少し先の様である。

 

 

英国パイロット協会

 英国パイロット協会の設立は1884年6 月である。日本では明治17年で前年には鹿鳴館が完成し、欧化政策が始まった頃である。この年、全国組織である英国パイロット協会の設立総会がブリストルで開催された。前年の1883年には英国全土で3,168人のパイロットが存在し、168、418隻の船舶を嚮導し、その収入は427、532ポンドであったという。総会開催時のブリストルのホテル代が10シリング程度で、現在の日本のホテル代をもとに推測すると1 万円程度でないかと思われる。20シリングで1 ポンドであるから、水先料の売り上げは85億円、一隻あたり5 万円程度となるのだろうか。そしてパイロットの平均年収は270万円程度といえるのかもしれない。
 総会では初代会長(1st President)には海軍予備役のCommander George Cawley を選出した。これまでは11名の会長が居るが殆どが海運に関係の深い国会議員や軍人・貴族であったが、現在の会長はCaptain DonCockrill で彼自身はロンドン港湾局のパイロットである。
 全国組織の協会を設立する直接の動機は強制水先区の問題であるが、協会として水先制度の健全な発展のために法令の改廃について、パイロットの意見を反映する場での代表権を獲得することでもあった。この目論見は成功し、その後水先法の改正や商船法の改正に関与することになる。また互助会組織ではないが、海難事故や災害などで苦境にあるパイロットへの支援も行っている。パイロットの直面する問題は強制水先区の問題はもとより、海難事故における責任・賠償・懲罰、年金や災害補償などの社会保障制度、教育・訓練など取り組まねばならぬ問題は山積していた。またパイロット自身の安全問題ではパイロット・ラダーなどの移乗設備や方法について改良や改善、法制の改正などに積極的に取り組んでいる。
 パイロットの訓練と資格認定については英国においては統一的な国家基準はない。
 前項の「現行の水先法(1987年)」でも述べた如く1987年の水先法では、パイロットの訓練及び資格認可の基準を設定する権限を所管港務局に与えている。これは明らかに不合理なものと思われ、2011年の秋には英国国会の下院でも取り上げられた。しかし英国運輸省は積極的に改善する意志はないようだが前述の2013年の海上航行法(Marine Navigation Act 2013)によって一部改正をおこないこれで対処しようとしているものの、依然として各地の所管港務局の恣意的な基準に委ねられている。恣意的と言うのは所管港務局に専門家などの十分な人的資源がなく、また経済的な要因もあり、パイロットの教育訓練に費用を掛けたがらないとの指摘である。こうした状況に危機感を戴いているパイロット協会は委員会を設置してこの問題に取り組んでいるようである。
 なおIMO においてはパイロットの訓練及び資格証明を包含する国際規定の作成を検討するように求められているが(STCW 条約の1995年の改正条約採択会議における会議決議10)、いまだ作業に着手したとは聞いていない。
 2000年の年次総会では、協会の名前をtheUnited Kingdom Maritime Pilots’ Association(UKMPA)と変更した。単にパイロットといえば今や英国でも一般の人々は航空機のパイロットを連想するのだろう。
 本書ではこの130年に及ぶUKMPA の歴史と年次総会の資料や水先制度に関わる幾多の挿話などが書かれているが、とても拾いきれないのでこのぐらいにしておきたい。

 

 番外としてヘルゴラント島のパイロットと英国船の話が書かれているので紹介したい。ヘルゴラント島はドイツの北海側のジャーマンバイトのはずれの島である。この島が80年以上にわたって英国の支配をうけていたことは今ではあまり知られていない。ナポレオン戦争の時代に仏軍が北部ヨーロッパの沿岸を征服した時、英国海軍は1807年にこの島を占領した。そして、この島の住民を扇動して密輸やゲリラ戦などおこない、仏軍に対する抵抗をした。ヘルゴラント島の住民はその多くが漁民であるが、時には商船のエルベ河口への水先案内を頼まれることもあった。これはエルベ河のパイロットにとっては職場の侵害となり不愉快極まりないものだった。ヘルゴラント島の住民は19世紀の数十年間は自分達を英国人とみなしていた。これはドイツが東アフリカのザンジバル島を英国に割譲して、ヘルゴラント島をドイツ領として取り戻した後も住民の多くは英国のパスポートを使用していたそうである。
 さて、1820年の9 月、英国のBrig(横帆の2 本マストの帆船)New Minerva 号がリヴァプールのCapt. Richard Shaldon の指揮のもと、ハンブルグを目指してやってきた。視界もよく、本船はパイロットを取る為にヘルゴラント島に2.5マイルまで近づいた。ヘルゴラント島のパイロットCapt. Lurhs は他のパイロットとともにボートで本船に接舷し乗船した。そしてエルベ河口までの水先料金として21ポンドを要求した。しかし本船の船長、Capt. Shaldon はこれを拒絶し、代りに5 ポンドを提示した。これでは安すぎるとしてパイロットは島の近くの浅瀬に注意を促した後、ボートで本船を去り、十分な水深のある方向へ向かった。本船船長は最初はこのボートの跡を追ったが、本船の所有する英国の海図にはこの浅瀬が記入されていないところから、近道をするために変針した。この時、島では総督を始め住民が高台に登り、いましも本船が坐洲するのを見物していた。そしてほどなく本船は浅瀬に一旦乗り上げたが、すぐに浮上した。パイロットは直ちに本船に戻った。本船船長が今度はパイロットの支援を必要とすると信じたからである。そして水先料金として168ポンドを要求した。本船船長は再び拒否したので、パイロットは今度は島へ向かった。背後で本船が再び坐洲するのが見えた。夕方の1800時に再度パイロットは支援を申し出たが、本船船長は自分で離洲できると信じてこれも断った。
 翌朝本船New Minerva 号はパイロット要請旗を掲げているのが認められた。パイロットは直ちに乗船し、離洲作業とその後のエルベ河口までの水先料金として1000ポンドを要求した。本船船長は100ポンドを提示した。もちろん合意されることはなく、激しいやり取りの後、船長はピストルでパイロットを脅迫した。二人は島に上陸し、船長は英国人総督に苦情を申し立てた。総督は民事に介入出来ないが、パイロットの支援を受けることを勧め、水先料金はハンブルグの仲裁所に任してはいかがかと提案した。双方ともこの提案を同意し、船長は二人のパイロットを選んで錨を使い高潮時に離洲を試みることにした。
 しかし、折悪しく天候は悪化し風は浅瀬に向かって吹いているところから、2 回の離洲の試みは失敗し、パイロット達はもはや離洲は不可能と宣言した。
 船長は再度上陸し、市庁舎でヘルゴラント島の救助法を調べた。この法によると救助者は救助された貨物の三分の一を要求できることを知った。船長は再度総督の助力を求めたが、総督も再度民事に介入は出来ないと断った。本船船長に残された唯一の選択肢は本船及び貨物の三分の一を諦めるか、全てを失うかであった。船長はハンブルグの保険会社に提訴するとして、しぶしぶ本船及び貨物の救助を委ねた。
 総督は通常の法律上の権利を解除して、救助を全島の住民に委ねた。救助者は貨物の三分の一を要求し、彼らのボートを使用して貨物全量を2 、3 日で無傷で陸上に運び上げた。本船は空船となるや否や離洲して再浮上した。本船船長は契約条件が不当であると強く抗議したが無駄だった。
 今や老齢のCapt. Richard Shaldon は彼の最後の航海で今まで営々と築き上げてきた自分の財産を全て失ったことをはっきりと自覚した。数日後彼は自分のキャビンであのパイロットを脅迫するのに使ったピストルで自殺した。
 本船及び貨物の財産価値は51,000ポンドにも達した。保険会社は三分の一をヘルゴラント島住民に分配することは不当だと強く抗議した。しかしハンブルグの裁判所は本船船長とヘルゴラント島住民との契約は完了し、且つ履行されたと決定した。
 これは綿密な調査に基づいた史実だそうである。この挿話を引用したことに他意はないが、パイロットの問題というより救助に関わる問題でこれはなかなか難しいというのが実感である。

 

以上

 

参考図書
「大型タンカーの海難救助論」-シー・エンプレス号事件に学ぶ-
成山堂書店 原著者 英国海難調査局
訳著者 浦環、三谷泰久、久葉誠司、坂井信介

「水先責任の一考察」-そのイギリス・アメリカ法との比較- 志津田氏治 1958年
長崎大学学術研究成果リポジトリ

 

 

(一社)日本船長協会 副会長 赤塚宏一

 


LastUpDate: 2024-Apr-17