IFSMA便り NO.71

コロナ禍と船員交代・船内における
コロナウィルス対策

(一社)日本船長協会 副会長 赤塚 宏一

 

はじめに

 前号はI F SMAが各国政府及び船長宛に送った公開書簡について紹介したのだが、手紙本文(含む翻訳)に紙数を費やし、また締め切り直前にIFSMAの船長宛の公開書簡も発表されたので、それを掲載するために、その背景や意図等、また書簡への反響について書くスペースが殆どなかった。今号では公開書簡草案の検討やその後の情勢、コロナ禍と船長との関係などについて書いてみたい。


1 .公開書簡発表にいたるまで

 公開書簡はIFSMA事務局長が草案を作り、ネットで理事がコメントすることになった。 草案では「ほとんどの船員は8 ヶ月から12ヶ月乗船し、週に7 日、毎週毎週90時間を超える労働に従事する」(Most of these Seafarers are serving at sea for between 8 and 12 months, working for 7 days and over 90 hours each and every week. )とあった。 これに対し筆者は、実態は多分この通りであろうが、海上労働条約では
「最長労働時間は、次の時間を超えないものとする。
(ⅰ)24時間につき14時間、
(ⅱ) 7 日間につき77時間」
とあり、言うまでもなく船長は船員の一人として、条約による労働時間の規制を受けるとともに、管理者として乗組員の労働管理・健康管理に責任を持たねばならない。恒常的に90時間を超える労働に従事していると表現することは、条約に適合せず船長の責任を放棄していることを表明するようなことにならないか?と疑問を呈した。
 IFSMA事務局長からは直ちに回答があった。「確かに海上労働条約に関してはその通りだが、船長の長時間労働の是正はIFSMAとしての最も重要な課題である。多くの旗国や海運主管庁は海上労働条約の柔軟な解釈を求めて、STCW条約2010では7 日間につき77時間の休息をとることとする規定を採択することに成功した。これで6 時間当直、6 時間休息の当直体制を合法化し、7 日間で91時間の労働をさせている。しかし残念なことに人権を、そして労働者の権利を最も尊重するべき欧州連合もこうした解釈に基づき6 -On 6 -Off 、1 日12時間の航海当直体制を認め、欧州水域を航行区域とする船舶の殆どはこうした当直体制で、しかも船長そのものが航海当直に入ることが常態化している。
 IFSMAは船長を航海当直体制から解放し、船長本来の業務に専念出来るようにするために努力をしてきたことはご存じの通りで、その主戦場であるIMOにおいて、事務局長である私は就任以来STCW条約の改正を提唱してきたことは、これまで何度も総会・理事会で報告してきたところである。近い将来のSTCW条約改正においては、ぜひ日本や米国の理解を得て労働時間の改正を提案したいと思う。 貴職のコメントについては、IFSMA会長とも相談のうえ、“ up to 91 hours each week” とすることを提案する。これで了解してほしい。」
 さらに「北欧のある国では、その領海のみを航行する船舶について航海当直資格保持者は1 名でよい。そしてそれは船長である。 多くの旗国は船長及び航海士1 名で最小安全定員を満足するとしている。英国が欧州を離脱したあかつきには欧州連合の政策を支持する必要はなく、IMOでSTCW条約の包括的な見直しが行われるときには英国の支援が期待出来るであろう。」と結ばれていた。
 欧州連合離脱、いわゆるブレクジットに対して、このような期待を掛ける側面もあるのかと気がついた次第である。
 海上労働条約とSTCW条約の条文の解釈については、ここでは立ち入らないが、6-On 6 -Off の航海当直体制は合法である。 船舶輻輳する欧州水域において、自分が船長として6 -On 6 -Offの航海当直に入ることは、想像するだけでも恐ろしい。日本の内航船の航海当直体制について詳しい知識はないが、かなり厳しい環境にあるのではないかと思う。
 他の理事からは、公開書簡の前段、すなわち前置きが長すぎるとか、IMOの回章が2件参照されており、また「円滑な船員交代のための枠組み」との関係がわかりにくいと言ったコメントがあり、それらを整理した結果、今回発表された公開書簡となった。 書簡中の数字は英蘭船舶職員組合(N a u t i l u s International)の提供したものである。


2 .乗組員交代の困難とその影響

 まず、最初にコロナ禍により、ただでさえ厳しい船内環境がいかに過酷なものとなっているか海外の情報から紹介してみたい。 このような報告は会員諸兄には文字通りの釈迦に説法であろうが、公開書簡を論ずるに当たって必ずしも、現状を理解している人々のみが対象とはならないからである。
(1) 「船員幸福度報告書」
 少し古い資料だが、5 月4 日発表されたThe Mission to Seafarersの「船員幸福度報告書」(Seafarers Happiness Index) の2020年度第1 四半期のコロナウィルス特別版から船内の現状を拾い集めてみる。 船内の過酷な状況については多くレポートがあるが、このレポートが代表的と思えるからである。
 The Mission to Seafarersは英国に本拠地を置く英国国教会による船員のための慈善団体でFlying Angel の名前で世界50ヶ国、200の港でシーメンズ・クラブを運営している。
日本では苫小牧・横浜そして神戸にあり、神戸が日本の宗教法人としての本部となる。
代表役員は7 月21日付の日本海事新聞1 面で紹介されたインフォーマ・マーケッツ・ジャパン株式会社社長のクリストファー・イヴ氏(元二等航海士)で筆者も責任役員を務めている。
さらに7 月16 日の紙面には12 日に横浜山手聖公会にて開催された “Sea Sunday” (海上で働く乗組員への感謝の気持ちを示す教会行事)の様子が掲載された。
ミサではT h e Mission to Seafarers横浜のサイモン・ロー司祭がコロナ禍で感染リスクが高まる中、Essential Worker (基幹労働者)として海上で働く船員への感謝と安全を祈った。
 この報告書は船主団体等の協力を得て調査、発表しているのだが、その概要は5 月19 日付けのLROニュース で以下のように示されている。
① 船員幸福度指標は、2019 年第4 四半期が6.39だったのに比べて、2020年第1 四半期はコロナウィルスの影響で6.30に低下した。
② コロナウィルスの影響で船員の上陸機会が減り、船員の心の健康に大きな影響が出ており、異なる国籍の船員の間等で、船内のいさかいが増えている。
③ コロナ検疫対策として、船員の乗下船が制限され、船員の多くが通常の契約期間より長く船上で働くことを余儀なくされ、労働の負荷が高まっている。
④ 労働負荷の上昇・労働契約期間の延長・孤独感の増加によって、船員のストレスは増え不安で疲れ切っている。
この結果、仕事の正確さや安全基準の遵守のリスクが高まることになる。船員の孤独感の解消のために、インターネットアクセスの向上など、陸上との通信確保が重要となっている。
 本文を読んでみると改めてコロナ禍の船内の過酷な状況が浮かび上がる。船内はもともと一般社会から隔離された社会だが、コロナ禍によりそれはより厳しいものとなった。 港に停泊中に上陸して、わずかでも気分転換し、またささやかな買い物を楽しむようなことは完全に過去の時代の話となってしまった。
 コロナ禍で乗組員の乗下船は極めて困難となり、休暇で故国へ帰る見通しは全く立たず、それが強い心理的な負担になる。コロナ禍でむしろ仕事は増え、とりわけ多くの報告や書類が旗国や寄港地の官憲から、また船主や船 舶管理会社から容赦なく要求される。本報告書の表現を借りれば、“u n r e a l i s t i c t i m e scales” , “They forget that this is a ship” , “management think that their crew are robots, that they do not tired” と悲痛なうめき声である。 船内には体育室もプールもなく、気分の転換も出来ない。そして「仕事のために起きて、仕事し、食べて、また寝る、その繰り返し、繰り返しまた繰り返し」(“We wake up to work, work some more, grab some food and sleep, repeat, repeat and repeat”)、あるいは、「今や乗組員は働き、食べ、そして仕事が終われば船室に駆け戻り、パソコンで映画を見て、寝る」(“People onboard now only work, eat, and then they rush to get inside cabins, watch movies on their laptops, and sleep. )と言う生活だ。 乗組員の誰もが疲れ果て、飲み会やゲーム、あるいは何かの催しを計画する気力もない。
 当然のことながら、新型コロナウィルスそのものに対する恐怖感も強い。感染者が居ない状態であれば、海上にあれば安全かもしれないが、寄港すれば官憲や代理店をはじめとする関係者が乗船して否応なしに外部人間との接触がおきる。 港により感染対策もまちまちで戸惑い、また違和感もある。このため船内は清掃や消毒など感染症対策が結構大きな負担になる。 もし、感染すれば船内では何の治療も手当も受けられないことは覚悟していても、これは大きな心理的脅威だ。 また寄港しようとしても、感染者が乗船していれば、寄港国に入港を拒否される恐れもある。 たとえ寄港できてもそこで十分な手当が受けられるとは限らない。今や多くの国では自国民の治療に精一杯で医療崩壊寸前の国も多くあるからである。 船員自身の感染問題に加え、故国に残した家族・親族そして友人達の安否が気遣われる。 乗組員の誰もがインターネットで家族と連絡がとれる訳ではない。 また仮に連絡がとれ、家族が感染やその他の理由で困窮していることがわかれば、それはそれで遠く離れた海の上にある船員として、何も出来ない無力感が心身を苛むことになる。
 新型コロナウィルスのためのワクチンが開発され、これが全世界の人々に行き渡らぬ限り、コロナとの戦いは終わらぬであろう。 コロナ後の世界が論じられているが、仮に今回のコロナウィルス、すなわちCOVID- 19が終息したとしても、ウィルスとの戦いは終わらないと思う。 それは人類の飽くなき欲望にともなう気候変動、地球温暖化、自然破壊、生物多様性の減損などに由来すると思うからである。 人類は今後いかにコロナウィルスと共生するのか模索するより方法はないのである。
(2) コロナ禍にある船員の健康・安全に関する調査と研究
 コロナ禍により長期間船内に拘束されている船員の健康や安全、その心理状態を調査・研究するプロジェクトがスタートしている。
その一つは
“Survey for international seafarers during the COVID-19 pandemic” と呼ばれるもので、オーストラリア海事安全局(University of Queensland (豪州))、 Royal Holloway University of London (英国)、 世界海事大学(the World Maritime University (スウェーデン))及び Uppsala University (スウェーデン)の研究者の有志が行うもので、その中心に世界海事大学の北田桃子准教授がいる。 北田准教授によるとこのプロジェクトは現在のところ国や団体あるいは企業などの支援をうけておらず、資金の目処は立っていないが、船員が現在どのようなサポートを得ており、またどのようなサポートを望んでいるのか早急に把握したいとしている。 このプロジェクトについては、IFSMAにも協力要請があり、すでに回覧されていると思うが、念のためにURLを書いておく。 海上にある会員諸兄には是非調査に参加して戴きたいと思う。
https://webropol.com/s/survey-seafarersduring-pandemic
 また、英蘭船舶職員組合(N a u t i l u s International)の機関誌 “telegraph” 7 月号によるとソレント大学(英国サザンプトン)のDr Helen Devereux (元航海士 カーディフ大学で学位取得)が、ソレント大学によるコロナ禍にある船員の調査、“The impact of the pandemic on seafarers(www.solent.ac.uk/seafarers-covid19 )” について、紹介し調査への参加を要請している。 Dr Devereuxによると長期間の船内における拘束は船員の健康・安全そして心理状態に悪影響を及ぼし、これは船舶自体の安全に直結する重要問題であると指摘している。 コロナ禍で船員にとって最大の問題は長期間拘束されることではなく、そのʻUncertainty’(不確かさ) という。 それは何時交代者がくるのか、何時下船出来るのか、航空便はあるのか、帰国しても隔離されるのか、いつ家族に会えるのか、さらに本船自体の予定も定かでない等々あまりに不確かな先行きが船員の心身を蝕むという。 これは船員の仕事への集中力の欠如となって現れる。 そしてこれは船員自身に止まらず船員の家族にも悪影響を及ぼすことは言うまでもない。 また多くの船員は ‘the channels’ (思考などの道筋、流れ? 心理学用語?)を経験するという。 これは予定されている航海の終わりに近づくにつれ、熱心に下船を期待する感情だという。 こうなると仕事に集中出来ず、またすでに帰国して自宅にいるような妄想も浮かぶという。 これは明らかに安全を第一とする船内において危険な状態であり、本人のみならず同僚や本船そのものも危険に晒す可能性がある。 研究者の一人がインタヴューした船長は「船員が家庭の悩みを抱えているとか、風邪から回復したばかりとか、あるいは予定された乗船期間を1 ヶ月ほども過ぎていると、その船員は強いストレスに晒され疲れていることははっきりわかる。 こうした船員には格別の注意が必要だ」と言っている。 コロナ禍による長期乗船は私達が考える以上に船員に大きな影響を及ぼしているのだろう。


3 .各国及び関係団体の動き

 IFSMAは国際的かつ有力な海事関係団体による C o v i d -19 M a r i t i m e I n d u s t r i a l Advisory Group( 通称MAIG)と呼ぶコロナ禍下の船員問題を扱うグループの中核として活躍をしている。 このグループは船主団体や海員組合、慈善団体など船員に関わる多くの団体が参加するもので、幸いなことに運動資金を確保出来ているとのことである。 そしてグループは “12 – s t e p C r e w C h a n g e Protocol” と呼ぶ乗組員交代のためのプロトコルを作成し、UN(国連)、IMO(国際海事機関)、ILO(国際労働機関)、WHO(世界保健機関)そしてIATA(国際航空運送協会)の合意を取り付け、IMOの加盟国及び旗国に送られ、旅行制限を緩和し乗組員交代を促進するように強く要請した。
 この結果、グテーレス国連事務総長は「新型コロナウィルスのパンデミックに伴う渡航制限により、世界で200 万人いる船舶乗組員のうち数十万人がどこにも上陸出来ず、数ヶ月にわたり海上に取り残されているとして懸念示した。 海上生活が15ヶ月にも及ぶ船員もいるという。 グテーレス氏は人道危機だとして、国連加盟国に対し、「船舶乗組員らを『基幹労働者』として公式認定し、要員の安全な交代を保証することを呼びかけた」と伝えている。 またローマ教皇が船員交代問題に触れることとなった。
 こうした関係者の努力や問題の深刻さを踏まえて、英国、アラブ首長国、シンガポール、デンマークなどは乗組員の交代につき協力することを表明し、インドもまたコロナ禍の影響を受ける船舶につき乗組員の交代などを含め便宜を図る旨表明している。
 そして、ついには英国運輸省の主導による閣僚級の「船舶乗組員交代促進サミット(Virtual)」 が7 月9 日に開催されるまでに至った。 これには欧州諸国、インドネシア、フィリッピン、シンガポールやアメリカなど12ヶ国が参加した。 NGOはICSとITFが参加した。 IFSMAは残念ながら招待されなかったが、事前打合わせにIFSMA事務局長が出席し、IFSMAの見解を述べる機会があった。 このサミットは共同声明を採択し、乗組員交代のために各国が協力することを確認した。
 しかし、事態はなかなか改善されないし、船内での滞在が長引くにつれ、船員の書類の問題も顕在化している。 ヴィザや健康診断書、予防接種証明書の期限切れ、さらにはパスポートも期限切れとなるなか、在外公館の大幅な業務時間の縮小などで更新など極めて困難だという。
 今後ともIFSMAは関連団体と連携し、問題の解決に努力することになろう。


4 .コロナ禍を巡る船長の法的問題

 コロナ禍は海運及び船長に大きな問題を突きつけた。感染者721 人、死者13人を出したダイヤモンド・プリンセス号の惨事はクルーズ業界に止まらずに一般消費者に強い衝撃をあたえた。この時船長はどのように行動し、何が出来て、何が出来なかったのであろうか。
 本船船長Capt. Gennaro Armaはイタリア出身で2018 年にダイヤモンド・プリンセス号の船長に就任した。イタリア語なまりの英語で、気の利いたジョークを織り交ぜつつ重要な健康情報を連日伝え、新型コロナウィルスの集団感染に不安を募らせる乗客たちを落ち着かせ、乗客の間でパニックが起きていない理由の一つは、船長のリーダーシップだった、と言う声もあったという。船長が称賛されたことは我々としては喜ばしいことだが、船長が感染防止対策にどのように行動したのであろうか。また横浜停泊中に感染が拡大し、そのために船舶所有者、港湾当局、医療関係者とどのような交渉をし、どのような手段を執ったのだろうか。これは是非とも検証しなければならない問題だと思う。さらに船籍国である英国、寄港国である日本政府とどのようなやり取りがあったのか是非知りたいところである。
 2 月1 日、ダイヤモンド・プリンセス号の船舶所有者及び船長は1 月25日に香港で下船した乗客が新型コロナウィルス感染者であったことを知った。しかし、船内で感染防止対策を行うことはなかったようである。その当時は新型コロナウィルスの恐ろしさは、船長は勿論、乗組員、乗客たちとは全く共有されていなかったからである。そしていつもように船内では華やかなショーやダンスパーティなどが催され、まさしくそこは三密の世界であっただろう。仮に船長等が新型コロナウィルスの恐ろしさを理解していたとしても、その時点で乗客を隔離し、厳重な感染予防対策を取ることは船長としても不可能であったに違いない。
 そして本船は予定通り2 月3 日に横浜に入港した。2 月4 日には最初に検査結果が出た31人の約3 分の1 にあたる10人の感染が確認され本船及び関係者に衝撃を与えることになる。日本政府は横浜で下船を認めるつもりであったが、この事実を受けて方針を転換し、船を停泊させ14 日間、乗組員や乗客を事実上隔離すると決めた。
 その後の船内の状況は乗客のSNSによる発信や対応に当たった医療関係者などの情報やヴェランダから常用薬品を求めてSOSを送る乗客の姿がテレビで報道されるなど一気に注目を浴びることとなった。海外メディアなどは「まるで浮かぶ監獄」、「コロナウィルス培養器」などと書き立てた。またDMAT(災害急性期に活動できる機動性を持ったトレーニングを受けた医療チーム)の一員として本船に乗船した神戸大学医学研究科の岩田教授による船内のずさんな対応を告発した動画などで世界的な注目を集めた。
 この間、船長はどのように行動したのであろうか。乗客にメッセージを送り、励まし、ヴァレンタイン・デーにチョコレートを送っただけではあるまい。しかし具体的なことはわからない。
 船長の権限と義務は海上交通法規の4 本の柱とされるS O L A S条約、M A R P O L条約、STCW条約そして海上労働条約に明確に規定されているが、より端的にはISMコードにより次のように理解される。
 すなわち、「会社は船舶で運用する安全管理システムの中に、船長の権限を強調した明確な記述を含めなければならない」とされており、それは一般的には、「超越権限 (Overriding Authority)」と呼称される。「船長は安全及び汚染防止に最大の責任と権限を有し、–」と記載され、「安全管理システム」にとらわれず、船舶、積荷、乗客、乗組員の安全を確保し、環境の保全のためには最良と判断できる行動をいつでもとれる自由裁量権を意味している。
 大部のWHOの船舶衛生ガイドを精査する能力は筆者にはないが、このガイドにも感染予防対策に関する船長の権限と責任について明確に規定している。
 しかし今回のような大規模感染については、想定される船長の権限や責任を超える問題である。いかに船長の「超越権限 (OverridingAuthority)」とはいえ、次元の異なる世界であろう。
 これは旗国、船舶所有者の存在する国そして寄港国の政府が関わる国家間の問題である。今回のダイヤモンド・プリンセス号事件で一方的に批難された日本政府は腹立たしいものがあっただろう。さらに旗国である英国や船舶所有者の所在する米国の協力がどの程度あったのか、なかったのか、船長との関係はどうだったのか、いずれにせよ日本政府は船内の詳細な状況を把握しきれず、またコントロールもできなかったのであろう。
 これはまさしく、国連海洋法条約を初めとする海洋法規の不備といえる。会員諸兄もよくご存じのように、公海上の船舶は船籍を置く国の管轄に服すのが国際法上の原則だ。国連海洋法条約の92 条(船舶の地位) 1 項は公海上の船舶は「国際条約又はこの条約に明文の規定がある特別の場合を除くほか、公海においてその国(旗国)の排他的管轄権に服する」と明記されている。
 従って、ダイヤモンド・プリンセス号は公海にいる間は英国籍のため日本の法律や行政権は適用されない。日本の領海に入った後は日本の管轄権が及ぶ。しかし、他の国際法を含め、法規上は英国や船舶所有者の所在する米国が感染症対応で協力する義務も定めておらず、日本の当局者の苛立ちも募ったことであろう。
 ここでは7 月2 日付の日本経済新聞でコメントされた同志社大学の坂元茂樹教授(神戸大学名誉教授)の記事を引用しておく。
 「運航・寄港国 役割分担を日本は船内での感染症対応を定める新条約や国際規則の策定に向け先導的な役割を果たすべきだ。
 国際海事機関(IMO)の場を利用し、船舶の旗国、運航会社の本国、寄港国の3 者の関係を規律する実効的な協力体制を交渉することが考えられる。
 旗国は公衆衛生上の緊急事態が生じれば、運航会社の本国や寄港先の国に通報し、寄港先の国は対応できる港などを指定できる体制を取る必要もある。
 船舶は入港前に寄港国の港湾当局や保健当局に船内の保健衛生状態を報告するなど役割や義務を明確にするのが望まれる。」
 日本政府はダイヤモンド・プリンセス号の経験を踏まえ、2020年度第一次補正予算に国際ルール作りのための調査・研究費を計上したという。また茂木敏充外相はクルーズ船内での新型コロナウィルスの感染拡大を受け、船の管轄権の整理など国際的なルールづくりを呼びかける構えと伝えられる。
 この国際ルール作りのための調査・研究がどのような形で行われるのか筆者には判らないが、どんな形にせよ、日本船長協会が関与し、意見を開陳出来るように働きかける必要があると思う。また現在真山全先生(阪大)及び逸見真先生(海洋大)にお願いしている「船長のための国際法ハンドブック(仮称)」にもぜひ詳説して戴きたいと思う。
 ダイヤモンド・プリンセス号が横浜に停泊して新型コロナウィルスと戦っている時期、集団感染の疑いのある船舶の入港拒否が相次いだ。オランダ籍のウェステルダム号は2 月上旬に台湾を出航後、入港できる港がなくカンボジアが受け入れるまで1 週間あまり洋上をさまよった。まさに「さまよえるオランダ人」である。国際規則が整備されぬ限り、会員諸兄にとっても決して他人事ではないであろう。


おわりに

7 月21日付のLloyd’s List はこのコロナ禍のために30万人にも及ぶ船員が雇用契約を終了し帰国出来ない現状に鑑み、彼らの声を届けるキャンペーンをしているが、その中である船長はこう言っている。
「我々は同情して欲しいわけではない。問題を正しく認識して欲しいだけだ」。


参考資料

1 .日本海事新聞
2 .LROニュース (長谷部正道) 5 月19日 May 4, 2020 ,
3 .KYODOニュース 6 月13日
4 .英蘭船舶職員組合(Nautilus International)の機関誌 “telegraph” 7 月号
5 .「クルーズ船のルールは日本主導でつくれ」山田吉彦 「Will」2020 年7 月号
6 .日本経済新聞 7 月2 日朝刊
7 .「ISMコードの解説と検査の実際」 成山堂書店
8 .Lloyd’s List 7 月21日
 


LastUpDate: 2020-Nov-05