IFSMA便り NO.84

「自殺と船員」
~ Suicide and Seafarers ~

(一社)日本船長協会 理事 赤塚 宏一

 

はじめに

 本年6 月12日に英国の運輸省が “Suicideand Seafarers” と題した報告書(以後「報告書」)を発表した。これを報じたのは8 月発行の“IFSMA Newsletter 55” である。このような題材を取り上げることに若干躊躇もしたが、これはまさにこの「報告書」が指摘する「船員の自殺を理性的に処理しない弊害」と思い紹介することとした。また本稿を書き始めようとした9 月10日が世界自殺予防デー“Wolrd Suicide Prevention Day” であり、日本においては自殺対策基本法に基づき毎年9月10日から16日を自殺予防週間と定めていることを初めて知った。
 船員のメンタルヘルスは深刻な問題であり、船長にとっては船内管理の最も重要なポイントであり、船員の自殺はその最悪な結果である。船内で発生した自殺はその家族や友人は当然のこととして乗組員にも重大な影響を及ぼす。
 この「報告書」の緒言は英国の航空・海事及びセキュリティを担当する閣外相であるRobert Courts 下院議員が書いているが、船員問題を的確に把握していると感じたことも紹介する理由である。たとえ少数の方でもこの問題に目を向けて頂ければ書いた甲斐があると思う。
 報告書の概要は次節においてもう少し詳しく記すが、IFSMAニュースレターはこの「報告書」をおおよそ次のように紹介している。

『本書は、船員のメンタルヘルスと自殺の影響、船員に対する利用可能な支援、2022年の海事分野における自殺が過少報告されている可能性について論じている。  この定性的ではあるが深掘りした調査レポートのために、幅広い業界の専門家に下記のような目的でインタビューを行った。
 ― 船員が直面するメンタルヘルスの課題を詳細に把握する。
 ― メンタルヘルスに悩む船員が利用できるサポートの種類を明らかにする。
 ― 船員の自殺が十分に報告されていない潜在的な問題を明らかにする。
 調査のためのフィールドワークはIpsos(イプソス 多国籍市場調査コンサルティング会社)に委託された。2022年3 月7 日から4 月1 日にかけて実施したフィールドワークは、20件の詳細な聞き取り調査で構成されている。
 自殺というデリケートな調査であることを考慮し、また必要な倫理的承認を期限内に得ることが困難であること、また、船員が同僚と自殺の問題を議論することに苦痛を感じる可能性があることから、船員自身へのインタビューは行わないこととした。 
 その代わりに、船員と一緒に働くか、船員に関する専門知識を持つ識者を業界全体から意図的に選び出し、多様な視点からの意見を反映させるように考慮した。船主、船舶管理会社、保険会社、海事慈善団体、チャプレン、組合、学識経験者など、さまざまな立場の人が参加している。この調査結果は、この重要な問題に関する関係者の知識のギャップを埋め、海上での自殺の記録を義務化させる議論の重要な資料となり貢献するであろう。』

 定性的なレポートと云うだけあって、数字や統計は全く出てこないが、これが船員の自殺という極めてシリアスな問題を浮き彫りにし、論ずるにあたり問題になるものではなく、むしろこの問題の本質に迫るもっとも有効な方法ともいえる。

1 .自殺と船員

 前述のように実際の調査やインタビューはイプソスが行ったが「報告書」をまとめたのは英国運輸省であり、前述のように英国の閣外相で航空・海事及びセキュリティを担当するRobert Courts 下院議員が緒言をよせている。少々長くなるが紹介したい。
『船員は、やりがいのある重要な職業である。しかし、船員には、これまであまりに長い間、気づかれることのなかったユニークな課題がある。船員は、家族や友人と離れ、何ヶ月も海上で過ごすことになる。これは、最近のパンデミックによって、さらに悪化した。着岸は大幅に遅れ、沖合で長期に待機することも少なくない。船員という職業は肉体的な労働を必要とする仕事であり、乗組員の交代制があるため、同僚との本質的な絆を築くことが難しい場合もある。さらに不安定な契約、低賃金、一貫性のないウェルビーイング・サポートなど、メンタルヘルスの危機を招く要素がすべて揃っている。船員の自殺という重要な問題の背景には、このような事情がある。この「報告書」では、海上での船員の自殺という重要な問題の背景を探っている。

 海運・海事産業において、メンタルヘルスの問題や船員の自殺など深刻な問題であることを示す十分な証拠があるにもかかわらず、こうした問題に対するデータは少なくて不完全なものだ。歴史的に、海上での自殺を記録するための国際的な枠組みは一つも合意されていない。このため、海上での自殺は間違いなく過小評価されているとの見方が多い。船員のメンタルヘルスのサポートのレベルは船主によって大きく異なり、また業界では古くからメンタルヘルスを何か不名誉なこととする文化的な課題がある。この「報告書」は、長い間待ち望まれていた船員のメンタルヘルス問題に取り組む第一歩となるであろう。国際労働機関(ILO)では、海上での船員の死亡の態様と原因を記録する国際的なデータベースの構築を提唱している。これは、問題の規模をよりよく理解するための最初の手がかりであり、最終的には政府と産業界が意味のある変化を起こすことを可能にするだろう。
 しかし、私たちはさらに上を目指している。海上での生活には変えることのできない多くの側面がある一方で、この調査は 船員のメンタルヘルスを改善するために、もっと出来ることがあることを示している。船員のメンタルヘルスの改善を望む声は強く、より包括的かつ予防的な方法で取り組むことを業界が望んでいることは明らかである。これらの取り組みを支援するため、MCA(MaritimeCoastguard Agency 英国海事沿岸警備庁:英国ではMCAが船員行政を担当している)は2022年7 月に「海上におけるウェルビーイング・ツール」を開始する予定だが、このツールは、船員に対する実用的なアドバイスを提供し、企業が船上での従業員の全体的な健康状態をモニターするのに役立つ。
 このツールは、船員に対する実用的なアドバイスを提供し、会社が船上での従業員の全体的なウェルビーイングを管理するのに役立つ。また、MCAは組合、船主、海事慈善団体と協議の上、「海上のウェルビーイング:企業向けガイド」と「海上のウェルビーイング:船員向けポケットガイド」の2 冊を発行した。
 また、政府が、船員は公正な報酬と労働条件を与えられるべきことを認識したことも喜ばしい。また我々の9 項目の計画は、船員にふさわしい権利と保護を与えるために、必要な場合には、抜け目ないオペレーターが利用するような抜け穴を塞ぎ、船員に対しては必要な権利と保護を与えるであろう。

 最後に、船主やチャプレン、組合、慈善団体など、業界全体からこれほど多くの人々が熱心にこの調査に参加してくれたことはこの問題を解決することに対する強い意欲を示すもので厚く感謝したい。また、運輸省、MCA及びイプソスのチーム及び業界全体の皆さんに感謝したい。
 船員は今日も世界経済を動かすために休むこと無く働き続け、必要な物資を必要な国へ運んでいる。船員は、私たちの国家経済と社会生活にとって極めて重要な存在である。彼らは、私たちの感謝、支援、承認に値する者である。この報告書は、その手始めとして歓迎される。』

 この「報告書」は次の四つの問題を扱っている。すなわち
 1 .船員のメンタルヘルス
 2 .船員のメンタルヘルスへの支援
 3 .船員の自殺
 4 .自殺の記録
である。調査の方法などについては緒言に触れられているが、この調査に参加しインタビューに応じたのは、
 海運会社/船主 4 人
 船舶管理会社 1 人
 保険会社 1 人
 慈善団体/チャプレン 8 人
 船員組合 3 人
 学識経験者 2 人
 その他 1 人
  計 20人

 団体の名前はICS(国際海運会議所)などが挙げられているが、詳細は省く。インタビューは今年の3 月に約3 週間掛けて行われ、一人最低1 時間は費やしたという。
 さて、「報告書」の順を追ってその内容を以下に概括してみたい。

2 .船員のメンタルヘルス  

➢ 船員は、特殊な社会環境に置かれ、非常に困難な職業であると考えられている。ある船主は言う。
 “When you are halfway across the Pacific and you hear your girlfriend has dumped you, there is nowhere to turn really”
筆者注:このコメントの後に、もし陸上にいれば慰めてくれる家族も友人もいる、相談に乗ってくれる人もいるであろう、また気分転換を図る場所も時間もある、- -と続くのであろう。
➢ 船員の精神的な負担は、長時間労働、孤立、疲労、 経済的な不安定さなど、様々な構造的な問題によってもたらされている。
筆者注:近年問題となっているのはインターネットである。船内の通信環境が悪く連絡に支障を来すのも船員にとって大きなストレスになるが、インターネット環境が良好であると、船員は長時間インターネットに張り付いて家族や友人、あるいは社会的なつながりを求めて時間を過ごすことになるとの指摘がある。この結果、肉体労働を要求される職位にあっては疲労回復に支障を来し、また睡眠の不足となって心身に悪影響を及ぼす。さらには数少ない同僚との交流の機会を失いますます孤立する。またスマホや長時間のインターネットがいかに人間の脳に強い影響を及ぼすか、多くの脳科学者が指摘するところである。
 もともと船内生活は時差や早朝や深夜の出入港、あるいは騒音・振動・動揺など良好な睡眠時間を確保するのに問題があることは言うまでもない。
➢ COVID-19が船員の精神的負担をさらに高めていると広く認識されている。
➢ 船員の間でも、また業界全体でも、メンタルヘルスの問題はあまり理解されていないと言われている。それは船内でメンタルヘルス問題を論じることが極めて難しい事にもある。船長は言うに及ばず、各部の責任者としてもメンタルヘルスに問題を抱える船員を長い航海に迎え入れたいとは思わないであろう。
 船員訓練機関の教官によるとメンタルヘルス問題を取り上げると船長を始め多くの上級職員は言う、
「私達はメンタルヘルスの専門家ではない。私達はメンタルヘルスに問題を抱える乗組員の世話をするために契約にサインした訳ではない。彼らは毅然として男らしく、自分自身でそうした問題を克服するべきだ。」

3 .船員に対するメンタルヘルス支援  

➢ 大手の海運会社は、中小の海運会社よりも包括的な社内メンタルヘルス支援サービスを提供していると考えられている。すなわち会社による支援プログラム、電話によるヘルプ・ライン、メンタルヘルスを考えそれを維持するための「メンタルヘルスの日」、あるいは「メンタルヘルス週間」などを設けている。
 ある船主は言う。「私が考える船員にとって良い会社とは、例えばこのようなポリシーを掲げる会社だと思う。乗組員が病気になった時、それがメンタルヘルスにかかわる問題であれ、何であれ、また原因の如何を問わず、その船員に何時でも職場は確保されている、職を失うことはない、回復した際にはまた働く場所を用意しよう、と言える会社だ。」
➢ この調査の参加者は、チャプレン(Missionto Seafarers などの牧師)は、入港したとき、あるいは船員が海上にいる間も、船員と話す機会を提供することで、メンタルヘルスサポートに大きく貢献していると述べた。
➢ 船員組合は、船員のメンタルヘルスのための教育プログラムを提供しており、しばしばメンタルヘルスに対する組合のサービスや行動を公表することで、船員や関係者の意識の向上に努めている。
➢ 参加者は、慈善団体によるオンライン、電話、対面によるメンタルヘルスに関する船員支援について多くの情報を提供した。
➢ すべての船員がメンタルヘルスの支援サービスを気軽に利用するわけではない。その一因として、船員の社会的・宗教的・文化的背景や、メンタルヘルスに関して問題を抱えていることを他人に知られたくないことなどが挙げられる。
➢ メンタルヘルスに関する船員への支援は会社により船により様々で一貫性に欠ける。

4 .船員の自殺  

➢ 船員の自殺は極めて深刻な問題であり、海運業界はもっと努力するべきだと参加者は広く認識している。
➢ 船員が直面するメンタルヘルス上の問題は船員という職業に本質的に根ざしていると考えられており、孤立した現象ではない。
➢ 船内で発生した自殺は、他の船員にとってトラウマとなり、船員はしばしば自らを責め、さらに船内のメンタルヘルスに関する環境を悪化させる。遺体が本船上に長く安置(冷凍庫?)されているような場合はなおさらだ。
 Mission to Seafarers のチャプレンは言う。「船内における同僚の自殺は残された乗組員に巨大な負のインパクトを与える。ある者は自分を責め、ある者は何とか忘れようともがく。私はこのような船舶の乗組員に対して掛けるべき言葉を知らない。自分の無力さを噛みしめるだけだ。」
➢ 船内での船員の自殺は海運会社や雇用者にとって、スケジュールの変更や乗組員の交代・補充のためなど財政的な負担が大きいほか、 会社や本船の評判や噂が船員の士気を低下させ、船員の雇用にも悪影響を与える。
➢ 船員は、文化的あるいは宗教的な理由から、この問題についてあまり触れたがらないが、このため船員の自殺はあまり理解されていない。
➢ 船員の自殺については、極めて大きないわゆる “不確実性という問題” がある。調査の参加者はそれが自殺であったのか事故なのか不明な場合が多く、様々なケースを取り上げているが、誰も断定出来ないようだ。

5 .自殺の記録  

➢ 参加者は、自殺の発生は様々な形で記録されあるいは報告されているが、その形式や方法は標準化されておらず、業界全体で情報が共有されることはほとんどないことを説明している。
➢ “不確実性という問題” 以外にもいくつかの重要な課題を指摘された。その一つは船員をどのように定義するのが最善かいうことで、乗船している船員だけか、休暇中の船員や引退した船員も含めるか、などである。
➢ 船員の自殺はほぼ間違いなく、過小に報告されていると思われる。その主な理由は、ある死亡事故が自殺であるかどうかを確実に知ることが困難であることと、それに関連して、遺族を精神的かつ財政的に保護したいという願望があることである。
➢ 同僚の船員は、自殺に関連し保険がどのように支払われるのか、あるいは支払われないのか不明なので、多くの場合遺族が保険金を受け取れるように事故として処理することになる。

6 .如何にしたら事態を変えることが出来るのか?  

➢ 船員のメンタルヘルスについて、これまでのように事件が起きてから対処するいわゆる対症療法ではなく、海運業界がより包括的かつ予防的な方法で取り組むことを望む声が聞かれた。
➢ 船員の自殺というこの特定の問題に対処するための鍵は広範囲に及ぶと考えられる。
➢ メンタルヘルスの “適応性” を、会社や船内の文化を通じてトップダウンで定着させること。
 また、練習生の訓練や採用アプローチを通じて、ボトムアップでメンタルヘルスの“適応性” を根付かせることが、この問題に取り組む上で中心的な役割を果たすと考えられた。
➢ しかし、“不確実性という問題” という課題があるにもかかわらず、自殺に関するより充実したデータを収集するために、さらに多くのことを行うことができると考えられる。データの質だけでなく、メンタルヘルスの議論を正常化させるという意味でも、自殺に関する充実したデータを集めるためにもっとできることがあるはずだという意見が多かった。

7 .終わりに  

 大学を卒業して船社に入り、西回り世界一周航路のH丸に次席三等航海士として初めて乗船した。乗船して判ったのだが、前航海で本船でいわゆる事件があり、乗組員は各部1名を除き船長以下全員が交代していたのであった。事件を知るE二等航海士は二人で飲む機会があった時、この事件、船員の自殺、について少し話をしてくれた。その船員は前々航海から何となく様子がおかしいと感じて居たが、積極的に誰も手を延べず、また自分自身も相談相手にもなってやれなかったと
 二航士は強く自責の念を滲ませていた。H丸は事件のあった海域に至ると汽笛を吹鳴し、花束などを投下して故人を悼んだ。二航士はその後、船長になるの待たず陸上に転進された。この事件が直接の原因かどうかは知るよしもないが、― 話を聞いた限りではとてもそのように思えなかったが ― 船内生活は厳しいものだなと改めて思った。船内での自殺は他人の人生をも変えることがあるのだろう。
 船長としては常時乗組員のウェルビーイング/メンタルヘルスに気を配ると共に、こうした不慮の事態に備え、そして事後対応を誤らぬよう考えてておく必要があるのであろう。

参考資料

1 .IFSMA Newsletter 55 2022年8 月
2 .“Suicide and seafarers” https://tinyurl.com/bdsky99d
3 .TradeWinds 2022年9 月9 日   “UK Club highlights crew mental health ahead of suicide prevention day”
4 .https://en.wikipedia.org/wiki/World_Suicide_Prevention_Day
5 .第463号 2021年6 月・7 月号 IFSMA便り「船員のメンタルヘルス」



LastUpDate: 2024-Apr-25