ウクライナの船員と労働運動
(一社)日本船長協会 理事 赤塚 宏一
はじめに
さる10月26日(木)、27日(金)の二日間にわたりIFSMAの総会が東京で開催された。総会の模様は月報第477号(2023年10月・11月号)に報告したところであるが、特筆すべきは戦火のなかにあるウクライナ船長協会のCapt. Oleg Grygoriuk(以後 Oleg)が参加したことであろうか。船長協会の本部はウクライナ最大の港湾都市オデッサにあり、ここは黒海穀物輸送合意の焦点となっている場所で連日ロシアのミサイル攻撃にさらされていることはご存知のとおりである。Oleg 本人はもちろんその周辺にも戦災が及んでいるようであるが、そのなかを敢えて来日したのは、アジア諸国の海員組合と直接会い、連携を深めるのが大きな目的だったと聞いている。往路はムンバイ経由でインドの海員組合と会談し、帰路はシンガポール経由でマレーシア、インドネシア、シンガポールの海員組合と会合を持つ予定と聞いた。
一昨年の2022年 2 月24日ロシアによるウクライナ侵攻が始まって以来、IFSMA便りでは468、470、474号と 3 度にわたってウクライナについて書いてきた。筆者のような戦中・戦後を体験した世代は、第二次世界大戦のような悲惨を二度と再び人類が経験することがあってはならないと信じている。「法の支配」の下でしか世界の平和は望め得ない今日の世界にあって、常任理事国でありながら国連憲章の根本原則をいとも簡単に踏みにじるロシアに対する強い怒りもある。そして戦時下にあるウクライナ船員及びその留守家族の苦境をたとえわずかであっても海事関係者と分かち合いたいとの思いがある。それと同時にウクライナは現在では世界でも有数の船員供給国であり、世界の海運界において重要な地位を占めているので、侵攻によりその船員供給体制や教育・訓練システムがどのような影響を受けているのか把握することは極めて重要であると思うからである。
昨年 6 月に発表されたWMU(世界海事大学)の「Transport 2040 – Impact of Technology on Seafarers – The Future of Work」と題するレポートではウクライナを主要な船舶職員及び部員の世界の五大供給国の一つとしてあげ、さらに今後の船員供給国の十大国の一つとして挙げている。このデータは2021年に発表されたBIMCO/ICS(国際海運会議所 ) の デ ー タ に 加 え、 最 近 のD r e w r y , EMSA, UNCTAD その他のレポートに基づくものだとしている。恐らく現在最も信頼の置けるデータであろう。ちなみに上記レポートではウクライナの船員数について、職員47,059人 部員29,383人 合わせて76,442人としている。
今号ではOleg本人の話や提供された資料に基づき彼の経歴やウクライナ船長協会の沿革などに触れてみたい。
Olegは1983年 2 月11日にオデッサで生まれ今年41歳になる極めて若いリーダーだ。100kgを超す巨漢で2019年に始めて会った時、なかなか貫禄もあり50歳代かと思ったのだが、その時は40歳にもなっていなかったことなる。2003年に国立オデッサ海事アカデミーで航海学の学位を取得し卒業した。卒業後外国船主の船で上級船員として乗船勤務をした。2008年には、Local Black Sea Trade Union Organization of Seafarers(LBSTUS 黒海地区船員労働組合)の議長補佐として、マンニング会社と連絡・協力を推進する役職に就いた。
2009年には、LBSTUSの第一副議長に選出され、2011年にはMarine Transport Workers’ Trade Union of Ukraine(MTWTU ウクライナ海上運輸労働組合)の第一副議長に就任した。2015年には、LBSTUSの大会で議長に選出された。彼の指導の下で、組織のメンバーシップは大幅に増加したという。2008年には13,000人だったLBSTUS登録メンバーの数は、2021年には52,000人に増加した。
2021年 5 月14日、第 8 回MTWTU大会で、地元の労働組合団体の代表はOlegを議長に推薦し選出された。まさにとんとん拍子の出世でよほどリーダーシップに富んでいるのであろう。
さらにOlegはウクライナ労働組合連合の評議会メンバーであり、ITFフェアプラクティス委員会のスーパーバイザー、2006年のILO海上労働条約の認定トレーナー(ILO MLC 2006の適用に関するトレーナーおよび海事検査官のトレーナー)でもある。IFSMAの副会長、IMOのアンバサダーも務めている。
すでに受賞歴も多彩で「海上および河川輸送国家管理庁の栄誉証明書」、「ウクライナ労働組合連合の名誉ディプロマ」、「社会的協力の発展に対するウクライナ労働組合連合の名誉章」、「ヘルソン州行政府長官の名誉ディプロマ(ヘルソン州海事アカデミーの教育・訓練基盤の外国投資の誘致、ウクライナの海事教育の向上に対する著しい貢献)」、また「オデッサ州地方行政府の名誉章」、「ウクライナ労働組合連合の記念栄誉章」などとある。40歳になるやならずで、これだけの栄誉を受けるシステムがあるのはOleg自身も傑出した人物であろうが、ウクライナという国の社会構造が日本とはかなり違うのではないかと思う。
Olegは巨体にもかかわらず身のこなしは軽やかで、よくしゃべるしジョークも好きなようだ。2027年にはIFSMAの総会がオデッサで予定されているが、ぜひ来てくれと言う。行きたいのはやまやまだけど、さすがに高齢で難しいだろうと言うと「私が車椅子を押す、そしてコーベへ行こう」という。コーベとはかつて海運振興会の船員問題調査団の一員として、加藤俊平先生、野川忍先生とオデッサを訪問した際、夕食に立ち寄った日本料理店なのである。
ウクライナ海上運輸労働組合(MTWTU)運動の歴史
ウクライナは1991年の独立まで自分の国をもたず、それまで何世紀もロシア、そしてソ連の影に隠れていたという。従ってウクライナの労働運動の歴史はロシアなりソ連のそれと多分に分かち難いであろう。もとより筆者にそのような複雑な情勢を整理するほどの力もないし、Olegの送ってくれた資料も断片的で判りにくい点が多いが、出来るだけ整理してみたい。
海上・河川運輸における労働運動は、当然一般労働運動の発展の中で生まれたが、船員たちは、最初に自らの正当な権利と利益を守るために立ち上がった人々でもあった。134年前の1890年から1891年の冬にサンクトペテルブルクで、そして1903年の春にオデッサで行われた港湾労働者のストライキの結果、港湾労働者たちは経済的な譲歩を使用者から勝ち取ることに成功した。オデッサでのストライキの過程で、非合法であったがストライキを指導するグループがストライキ委員会として組織され、さらに最初の職業別労働者が組織された。この出来事は、海運・河川運輸労働者の組合の組織と登録の始まりを示すものとなった。
1905年 4 月 9 日、蒸気船チハチャーエフ号の船員と石炭夫は、オデッサ港で国旗を降ろいる他船に乗務する船員たちに合図を送った。「みんな陸に上がろう」。この大規模なストライキには、船舶と陸上の労働者約 1 万 7千人が参加した。船員たちは、船の乗組員の募集と雇い止めを担当する専門組織である「船員登録所」の設立を要求した。これは船主と船長の恣意的な行動を制限するためのものだった。この闘争の中で、オデッサの船員たちの行動は大きな支持を受け、バルト海、カスピ海、極東ロシアの至る所で、船員たちは自分たちの要求を提起し始めた。船員たちは船員の募集と雇い止めに対する規制を確立することを要求した。その結果、1905年 9 月1 日、オデッサで「船員登録所」が開設された。これは国内唯一の組織で、組合員の労働条件、生活条件、給与を規制することとしていた。 8 時間労働制が復活し、給与が上がり、船員の福祉施設、図書館、食堂が開設された。
しかしながら、このためには組合は船主や当局からの過酷な弾圧に立ち向かいながら、地位を確立する必要があった。ストライキを行った乗組員は何度も警察や軍によって弾圧された。オデッサでもまたヘルソン、ミコライウ、ノヴォロシースクの船員と港湾労働者の組合は敗北を喫し、その指導者たちは迫害を受け、追放されもした。それにもかかわらず、船員と港湾労働者の団結と組織化のアイデアは、船員や港湾労働者の間でますます多くの支持者を引き寄せた。
ここで思い出すのはエイゼンシュテイン監督の有名な映画『戦艦ポチョムキン』である。これは第一次ロシア革命を扱った不朽の名作である。「オデッサの階段」と呼ばれるオデッサの市民を虐殺する場面は映画史上もっとも有名なシーンの一つである。かつて調査団の一員としてオデッサを訪問したとき、この階段を上から下まで往復した記憶がある。この『戦艦ポチョムキン』の反乱は1905年 6 月14日とのことで、上述の 4 月 9 日の商船船員のストライキとどのような関連があるのか、ないのか筆者には判らない。いつか調べてみたいと思う。
1912年にはコンスタンティノープル(イスタンブール)で黒海航路の船員の組合が形成され、主にオデッサ港に配船された84隻の船の乗組員が結集した。
そして、コンスタンティノープルというロシア国外にあっていわゆる組合のセンターが啓蒙と組織活動のために新聞「Seafarer」を発行し始めた。1913年 8 月、ロンドンで開催された会議で、「ロシアの船員の職業別労働組合」が設立された。この組織には9,000人が参加し、そのうち4,000人は黒海船員で、5,000人はカスピ海船員だった。
1914年に始まった第一次世界大戦は、船員と組合に苦難だけでなく、過酷な政治的抑圧ももたらした。これにより、すべての労働組合が解散された。ロシアの皇帝政府は亡命先にいる労働組合活動家にまで手を伸ばした。
オデッサ、サンクトペテルブルク、マリウポリ、ケルチ、ノヴォロシースク、リガ、バクーなどの各地で労働運動のリーダーであった多くの船員、港湾労働者、船舶修理工が逮捕された。1914年10月、オデッサで行われた裁判で彼らは懲役刑や要塞やシベリアへの流刑、過酷な土地への強制定住などの刑が宣告され
た。
1917年の 2 月革命は、船員の労働運動の新たな興隆に寄与した。全ての汽船、大型河川船、および多くの航洋船に船員委員会が設置され、ロシアの船社を統括することとなった。1917年 3 月10日、オデッサの船員と港湾労働者が集まり、新しい労働組合が設立された。
地域の労働組合組織の形成と並行して、船員と河川運送労働者の全ロシア労働組合の設立が企画された。その結果、1917年 7 月17日にサンクトペテルブルクで会議が開催され、バルト海、黒海、白海、カスピ海の船員やドニエプル、ドン、クバンなどの河川の船員合計47,802人の地域の労働組合を代表する96人の代議員が参加した。会議では重要な組織上の決定がなされ、規約が承認され、 8 時間労働制、船員と河川運送労働者の生活条件の改善、医療と法的支援、社会保険などの経済的要求が策定された。会議は航洋船の船員と河川運送労働者の全ロシア労働組合の設立を宣言し、代議員たちは中央委員会と呼ばれる組織の委員を選出した。
組織発展の段階
1917年の10月革命、商船隊の国有化、そしてこの期間中の当局の経済的および政治的な決定により、海運労働組合運動の発展プロセスが加速した。これらの決定は、組合と大衆とのつながりを強化することによって、組合の全面的な強化を目指した。組合の関与によって、船隊の復興も計画された。革命後の時期、かつての船主は経営から排除され、新たないわゆる「赤い」指導者たちは十分な知識も訓練を受けていなかったため、企業の経営委員会と労働組合委員会が協力関係を強め産業の回復と発展を確保する役割を果たした。彼らはまた、実際の経済部門で何百万もの労働者に雇用を提供し、経済を麻痺から脱却させ、国家全体での成功のための方策を実行した。
第二次世界大戦の初めに、労働組合(全国的な組織として)は、主要な生産力(物質と人的要素の両方)をウクライナの西部から主要な工業地帯である東部に移動するという重大な責任を担った。労働組合はまた、数十万人の避難民の新環境での社会生活や労働生活の調整を支援した。戦争中、輸送船隊はすべての任務に対処し、国防力の一翼を担い、企業と民衆の避難、軍事と国民生活のための貨物の輸送を行い、戦線とソビエト軍の攻勢作戦に必要な物資の補給を担った。その当時の船員の労働組合の中央委員会はレニングラードにあり、ナチスの封鎖下でも運営を続けたという。
復興と発展の段階
1947年 6 月、モスクワで第 3 回の河川運輸労働組合大会が開催され、同じ年の10月にはレニングラードで第 3 回の海運労働組合大会が開催された。この時、代議員たちは河川運輸労働者が勝利に貢献したことに誇りを持って語った。彼らは船舶、港湾、工場の復興のために何をすべきかを議論したが、最も関心を持って取り組まれたのは、産業のさらなる発展、戦争の影響を受けた地域での住宅建設の問題、福祉と教育の問題であった。特に重要視されたのは、経営委員会と労働組合当事者の義務を厳格に履行するための集団協定
だった。
50年代初頭には、老朽船や船隊の技術的な不備や問題点が解消され、船隊管理の合理化が推進された。地域の労働組合組織は、経済と生産に深く関与するようになり、資源を最大限に活用するよう努力がなされた。合理化や改善に関するセミナーが重要な役割を果たすようになり、船隊の保守修理の技術的向上、港湾での全面的な機械化の導入などの近代化の問題を議論し、関係者が交流し意見を交換する機会が設けられた。こうして過去には採算の取れなかった海運は、今や国の経済を支える高収益分野となった。海上と河川の輸送船隊によって輸送される貨物は、船員と河川運輸労働者の労働活動、船隊の技術的発展、運航管理の改善、ベストプラクティスの普及と実施、貴重な提案によって大幅な増加となった。 60年代と70年代には、労働組合組織は生産計画の開発と実施に積極的に参加し経営部門と共に生産と労働の問題に取り組み、良好な労働条件と健康的な労働環境の確立にもっとも多くの注意を払った。
80年代末、東西冷戦も終わりに近づきソ連邦の再編が始まった情勢下、船員社会にも大きな変化をもたらした。社会変革の条件下で、労働組合は、船員たちの正当な権利と利益の保護を主な使命と見なし、これを組合の原則とし、労働組合活動への国家の統制の断固とした拒絶、権威主義的な官僚制度や階層指向の垂直モデルに対する反対、および労働組合活動を制限するための既存の規則に抗議することであった。
ウクライナ海上運輸労働者組合(MTWTU)
1991年 8 月24日、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の独立が宣言され、ここで始めてウクライナという独立国が生まれた。
90年代初頭、旧ソビエト連邦の海上/河川輸送は複雑な危機に見舞われていた。多くの港湾で労働者をパートタイマー扱いとし生活は極めて不安定であった。また輸送量の減少と船隊の老朽化などで多数の船がスクラップされ、多くの船員が生計を失い、失業と生活水準の急落を経験した。
ウクライナの独立と経済における市場主義の導入に伴い、海事産業の企業、公的機関や組織の労働組合は産業を立て直し、労働者の社会的および経済的権利を保護するために力を結集し共同行動を起こす必要があった。
1992年 1 月30日にオデッサで労働組合創立大会が開催され、ウクライナ海上運輸労働者組合(MTWTU)の創設に関する宣言が採択された。MTWTUはこれによってソ連邦下での労働組合支部組織の法的な後継者となった。同年、MTWTUはウクライナ最大の労働組合連盟であるウクライナ労働組合連盟に加入した。そしてMTWTUの代表は連盟の執行委員会および評議会に代議員として選出された。独立を果たした現在、共産党政権下の労働組合のあり方とは根本的に異なるため、新しい労働組合の組織を固め業務を合理化しその地位を確固とするのは、容易ではなかった。しかし国の発展のすべての段階を経て、MTWTUは組合員の社会的経済的および労働者としての権利と利益を保護するという本来の使命を裏切ることはなかった。市場経済の形成の条件下で、労働者を保護する最良の方法は、安定した雇用と正当な賃金である。このため地方の支部と経営団体ともよく連携し雇用問題をモニターし適宜必要な支援を行っている。
1993年、MTWTUは国際運輸労連(ITF、ロンドン)に加入し、ウクライナで唯一の国際的な海運労働組合となった。さらに2000年には、MTWTUは欧州運輸労連(ETF、ブリュッセル) のメンバーになった。2002年、MTWTUの第 4 回大会が開催され、MTWTUの創設メンバーであり経験豊富でカリスマ性もある組合員のMichael Kirieievを指導者に選出した。2003年以降、MTWTUはウクライナ運輸労働組合連盟と協力し、その加盟組織と共に、ウクライナの運輸産業の主要な社会的経済的問題を解決するための活動を行っている。ウクライナの労働組合は若者を労働組合組織の活動に参加させることに積極的で、MTWTUでも青年評議会の代表がITFの青年評議会およびETFの青年評議会メンバーに選出されている。
MTWTUは外国のパートナーとビジネスコンタクトを築き、外国船主の船舶で働くウクライナの船員の法的、経済的、および社会的利益を保護するために団体協定を締結している。船員および港湾労働者の権利を保護するために、MTWTUはウクライナによるILO海上労働条約2006の批准を推進してきた。
2014年はウクライナにおける悲劇的な出来事の年であった。ロシアの一方的なクリミアの占領により、MTWTUは一度にオデッサの2 つの事務所と一部の地方組合組織を失った。
筆者注 これは2014年 5 月 2 日に起きたユーロ・マイダン革命推進派によるオデッサ労働組合会館放火事件によるものと思われる。反マイダン革命派が立て籠もった労働組合会館に火炎瓶などが投げ込まれ、それが会館内の灯油などの可燃物に引火し、40人以上が逃げ遅れて焼死・窒息死する惨劇となったと言う。
しかし、国際労働組合はその時完全な連帯を示し、この困難な時期において、MTWTUはITFおよびその関連団体の支援を受け、翌2015年には新しい本拠地を得ることができた。2021年には、MTWTUの第 8 回大会が開催され、Oleg GrygoriukがMTWTUの議長に選出されたことは既に述べたところである。 現在ではロシアのウクライナ侵攻という極めて深刻且つ過酷な状況下でも80,000人以上のMTWTUメンバーが団結し活動していることはこれまでの「IFSMA便り」でも触れたところである。
総会前日の理事会ではウクライナの深刻な状況に鑑み、2023年度のIFSMA会費の減免が改めて承認されたが、Olegはそれに感謝すると共に来年度は何としてでも会費を払う、また払う目途も立っていると強調した。
おわりに
Olegから送られてきた資料は組合の教育・宣伝パンフレットの一部を英訳した程度のもので、これだけでウクライナの船員組合の沿革を詳細に知ることは難しいが、帝制ロシア、ロシア革命期、共産党政権下、ソ連解体前後そしてウクライナ独立、その後もユーロマイダン革命と社会構造の大変革を経験する中で、船員を巡る労働運動がどのような軌跡を辿ったのか垣間見ることは出来たのかも知れない。この130年余のロシアやウクライナの船員、そしてその労働運動には数知れない人間のドラマ、それも過酷な、あるいは崇高な人間の営みがあったのであろう。
今また、ウクライナの船員や港湾労働者はロシアによるウクライナ侵攻のため厳しい試練に立たされている。私達に出来る事は実態を知り、連帯の気持ちを表現することかも知れない。
参考資料
1 .2023/ 8 /29日付 E-MAIL “MTWTU materials for IFSMA Captains Magazine”
2 .「Transport 2040 – Impact of Technology on Seafarers – The Future of Work」by World Maritime University 2023
3 .https://ja.wikipedia.org/wiki/%E 6 %88 %A 6 %E 8 %89%A 6 %E 3 %83% 9 D%E 3 %83%81%E 3 %83%A 7 %E 3 %83%A 0 %E 3 %82%AD%E 3 %83%B 3
4 .「物語 ウクライナの歴史 − ヨーロッパ 最 後 の 大 国 」 黒 川 祐 次 中 公 新 書 1655
5 .「ウクライナ動乱 − ソ連解体から露ウ戦争まで」 松里公孝 ちくま新書 1739
6 .M A R I N E T R A N S P O R T W O R K E R S’TRADE UNION OF UKRAINE E-BULLETIN SEPTEMBER-OCTOBER 2023