IFSMA便り NO.93

「船長のための海事法実用指針」

(一社)日本船長協会 理事 赤塚 宏一

 

はじめに

 かねてよりIFSMAは船長のための国際法に関する参考書の出版を計画していたのだが、2021年ICS(国際海運会議所)の協力を得て作業に掛ったことは月報第462号「IFSMA便りNo.75」2021年4 月・5 月号で報じたところである。この国際法参考書は“The Master’sPractical Guide to Maritime Law”(「船長のための海事法実用指針」 以下、「本書」)として2023年10月に刊行され、同月のIFSMA東京総会で紹介されたことも月報で報告したところである。
 この「船長のための海洋法実用指針」出版の目的について本書の序言では大約次のように述べている。
 『この船長向けの海事法実用指針は、経験豊富な船長が知識を更新するためのガイダンスとしてだけでなく、初めて航海に乗り出す船長を導く羅針盤としても機能する。そして我々の海事産業界における複雑な法的体系を解きほぐそうとするものである。
 IFSMAとICSによって企画され、経験豊富な船長や船会社の代表からなるパネルによって執筆されたこの指針は、船会社と船長双方にとっての現在のベストプラクティスを反映した実用的な示唆と実際の運航現場における実例を提示し、特に船長が船上で責任を負う商業的側面に重点を置いている。
 海事法には、管轄権から貨物クレーム、海上保険、汚染規制、衝突責任、乗組員権利まで、実に幅広いテーマが含まれる。年々、新しい法律が登場し既存の規制が進化し、ただでさえ入り組んだ法的地形にさらに複雑な層が追加されている。この指針では、船長は海事法の下での彼らの権利、責任、義務を包括的に理解することができるよう努めている。航海の開始から終了まで、この指針は、船舶文書や船積書類、契約関係、貨物輸送、船内犯罪、寄港地の法執行機関との交渉、そしてグローバルな海事法枠組みの基盤となる国際協定など、船長として重要な法的責任をともなう事例を網羅している。
 さらに、この指針は、船長が海上でよく遭遇する実際的な現実のシナリオを示すことで、理論と実践のギャップを埋める。法的問題に効果的に対処する方法についての貴重な指針を提供し、ベストプラクティスを強調し、法的リスクの管理と紛争解決に関する専門家の助言を提供するであろう。これにより、船長は法的遵守を維持しながら、乗組員、船舶、環境、および貨物の安全性を確保し、船主および荷主または貨物関係者に対する船長の責任を果たすための情報を得ることが出来る。
 この指針は、船長が遭遇する可能性のある法的問題について包括的な概観を提供するよう努めているが、複雑な問題に関しては、資格のある専門家の法的助言を求める必要があることに注意することが重要である。海事法は広範で絶えず進化する分野であり、多数の国家、地域、国内の規制に影響を受けている。そのため不確実性があると思われる場合は、船主に助言を求めたり、この指針の範囲を超える複雑な法的課題に直面した際には、専門家の助言を求めることが望ましい。』
 この「実用指針」の執筆者として前述の「IFSMA便り」では二人を紹介したのだが、執筆にあたり契約条件が整わず、あらためてIFSMA及びICSの関係者9 名からなるパネルを立ち上げ完成したものである。参考のために執筆パネルを紹介したい。 Capt. Sanjib Behl,Anglo-Eastern Ship Management
 Capt. Martin Bjorkell,Tallink Silija
  IFSMA副会長 フィンランド船長協会
 Linda Howlett,ICS 法務部担当理事 
  豪州出身の弁護士
 Peter van der Kruit, オランダ船長協会
  主たるテクニカル・ライター
 Cris Oliver,ICS 海務部担当理事
 Capt. Paul Owen,IFSMA事務局次長
 Leyla Peason,ICS 法務部
 Cmdre. Jim Scorer,IFSMA事務局長
 Capt. Leonid Zalenski,Columbia Ship Management

本書の構成

 本書はいわゆる上製本でA 4 サイズ、リング製本で表紙は上質な板紙、ページ数は262ページ、重く嵩張り、これは船長室のデスクに置いておくものであろう。ちなみに重量は1.4KGある。写真やイラストも多く、重要な個所や銘記すべき所は紙面が色刷りとなっている。現代風なハンドブックと言えよう。
 内容は3 部21章よりなる。少し長くなるが各部の章を列記する。そして興味がありそうな点について簡単に触れたい。
第1 部 General 総論
 第1 章  Introducing the law 法律への導入
 第2 章  Master’ s responsibilities to shipowners
    船主に対する船長の責任
 第3 章  Masters overriding authorities and discretion
    船長の超越権限と裁量権
 第4 章 Personnel management
    個人の管理
 第5 章  Master’ s liability, accountability,responsibility and risk
    船長の責任、義務及び危機
 第6 章 Third persons on board
     船上の第三者 (乗組員以外の人員)
第2 部 Statutory/legal
   制定法/法律
 第7 章  Master’s criminal accountability and criminal investigation authority
     船長の犯罪に関する説明責任及び犯罪の調査権限
 第8 章  General average and particular average
    共同海損と単独海損
 第9 章  Master’ s role in marine causality and accident investigation procedure
    海難事故調査における船長の役割
 第10章 Maritime security
    海上保安
第3 部 Commercial 商業
 第11章  Marine insurance: Hull and Machinery(H&M)and Protection andIndemnity(P&I) 海上保険:船体保険及びP&I保険
 第12章  Risk management of cargo handling and ship stability
    荷役時の危機管理及び本船の復元性
 第13章  Towage and salvage compared
    曳航及び海難救助
 第14章  Carriage of goods by sea: common carrier versus private carrier
    海上物品輸送:公共輸送対自己輸送
第15章  The master’ s contractual obligations in cargo management
     貨物管理における船長の契約上の義務
 第16章  Charterparties’ fundamental terms
     チャーターパーティーの基本的な条項
 第17章  Shipowner’ s and charterer’ s risk and responsibilities
    船主と用船者の危機と責任
 第18章 Laytime and demurrage
    停泊期間と滞船料
 第19章 Documentation
    船積書類
 第20章 Cargo damage 貨物損傷
 第21章  Ship damage by cargo or during cargo operations
     貨物もしくは荷役時における船体の損傷

第一部 総論 General  

 ここでは法律に関するきわめて基本的な事柄が説明されている。まず船長という用語について、『Master Mariner, Shipmaster,Captain,CommanderあるいはSkipperという呼び方があるが、本書では‘Master’ に統一する』とある。
 かつてI F S M Aのホームページに“T h e courtesy Title of ‘Captain’” というコラムがあり、そこではCaptain は言うまでもなく本来軍隊での階級を表すものであり、商船の船長に対してCaptainと呼ぶのはあくまで、Courtesyとしてであると書かれていた。このcourtesyという言葉も難しいが、まあ相手に対する敬意か好意的な呼び方ということであろう。それにしても今では『Captainという呼称も暴落でアメリカやカナダでは屋台を引っ張ってアイスクリームを売る主人も“Captain of an Ice Cream Cart” と呼ぶ』と嘆いている。
 IFSMAはShipmasterを正式用語としているが、十分な経験と見識のある船長をCaptainと呼ぶのは何ら差し支えなく、IFSMAのメンバーにはCaptain が溢れているとしている。なお、英国の船舶職員法などの法律上は“Master Mariner” と書かれているようだ。

 法律の体系については詳しい説明があるが、船員にとって最も重要な海事法の体系は国連海洋法条約(UNCLOS)という土台に4 本の柱、すなわちI M Oの海上人命安全条約(SOLAS),海洋汚染防止条約(MARPOL)、船員訓練・資格証明・当直基準条約(STCW)、そしてILOの海上労働条約(MLC)が立ち、その上に各国の法制が乗っかるという図が示されている。


船長最後退船(離船)の義務 “The Master as the last person on board”  

 第2 章 「船主に対する船長の責任」に船 長最後退船(離船)の義務についての記述がある。日本の船員法では

(船舶に危険がある場合における処置)第十二条 船長は、自己の指揮する船舶に急迫した危険があるときは、人命の救助並びに船舶及び積荷の救助に必要な手段を尽くさなければならない。

とあり、最後退船(離船)については触れていない。しかし旧船員法第12条では「船長は船舶に急迫した危険があるとき、人命、船舶および積荷の救助に必要な手段をつくし、かつ、旅客、海員、その他船内にあるものを去らせた後でなければ、自己の指揮する船舶を去ってはならない。」(船長の最後退船(離船))とあり、違反した場合は5 年以下の懲役という罰則が規定されていた。
 1970年に船員法が改正がされて、現行船員法第11条・第12条に置き換えられ、自己の指揮する船舶に急迫した危険には必要な手段を尽くす一方で、やむを得ない場合には己の指揮する船舶を去ることを可能とする規定となった。この船員法の改正に至った背景、殉職された船長、そして改正にあたり日本船長協会が果たした大きな役割と裏話については、これまで「IFSMA便り」でも何度か触れたこともあるのでここでは繰り返さないが、日本船長協会の活動の大きな成果である。
 インターネットで船長最後退船(離船)の義務を検索するとすぐに「船長の最後退船」(フリー百科事典『Wikipedia』)にヒットする。この記事は多くの事例を集めていてそれはそれで面白いのだが、「海のロマン」志向に迎合し過ぎていると感じられる。少し長いが最初の部分を引用してみる。
 『船長の最後退船とは、海事における伝統の一つで、船長が自分の船とその船に乗っている全ての人に対して最終的な責任を持ち、緊急時には船上の人を全て助けてから最後に退船するか、さもなくば死を覚悟するというものである。船長は船と運命を共にする(The captain goes down with the ship)とも言う。
 1912年に沈没した客船「タイタニック」とその船長エドワード・スミスに関連して言及されることが多いが、この伝統は「タイタニック」沈没よりも少なくとも11年前には行われている。船の遭難時、ほとんどの場合において、船長は自分の避難を後回しにして、他の人々を救うことに集中する。その結果、最後まで船に残ることになる船長は、船と共に沈んで死ぬか、最後に救出されることが多い。
 この伝統は、19世紀に作られた「ウィメン・アンド・チルドレン・ファースト」(女性と子供が第一)という別の行動規範と関連している。どちらも、ヴィクトリア朝時代の理想的な騎士道精神を反映したものである。当時の上流階級の人々は、神聖な名誉、奉仕、弱者への敬意に結びついた道徳を守ることが求められていた。これは、女性と子供は一族によって保護されるべきという古来からの規範に由来している。1852年のイギリス海軍の輸送船「バーケンヘッド」の沈没事故では、女性や子供を先に避難させてその命を救った船長と兵士たちの行動は、多くの人々から賞賛された。ラドヤード・キップリングの詩“Soldier an’ Sailor Too” やサミュエル・スマイルズの『自助論』(Self-Help)では、船が沈んでいく中、気を引き締めてバンドを演奏した男たちの勇姿が取り上げられている。』
 本書では大略以下のように述べている。『船員も含めて多くの人々は船長は常に船上にとどまるべきだと考えている。すべての状況において、それが緊急事態のような場合でも船長の仕事と責務であるからだ。しかし、これは国際法上における船長の公式の法的義務や役割ではない。
 一部の国の法規にはそのような規定がまだ含まれているかもしれないが、「船長最後退船(離船)の義務」は一般に昔の道徳的な規範や歴史的な物語にしか見られない。
 船長は明らかに、緊急時には船上にとどまって乗船者全員の命を救う義務がある。船長は船と船上のすべての人々に対して責任をもち、船を放棄するか否かを決定する。船長にはその究極の権限と責任がある。
 問題は、全員が避難できない場合に船長が船上にとどまるべきかどうかである。例えば、一部の人々が機関室や区画に閉じ込められ、ドアが塞がれているか船体の構造に損傷があるために脱出できないかもしれない。
 まさに沈没に瀕しているときや大規模な火災が発生している船のような状況では、船長は最後まで船上にとどまる必要はない。緊急時に船を去るタイミングや方法は自らの判断に任されている。
 船長は船内に閉じ込められ脱出出来ない人々を救助するために最善の努力をしなければならないが、船上にとどまることで自らの命を危険にさらすべきではない。
 国際法は、船長に常に最後退船(離船)の義務を課すようなことは決してない。船長には良きシーマンシップを体現し、全ての乗組員と乗客の安全を適切な方法で確保することが求めらる。
 他の可能性は、船長が救命ボートから本船からの退船を指揮監督することである。もし救命ボートが内部および外部に対する通信機能を持っている場合、これは適切な方法であるかもしれない。しかし本船が発電機能を失った場合、通信手段は限られるか存在しないかもしれない。
 これらの決定は船長に委ねられるが、船長は後刻関係当局や法廷に対して説明責任を負うこととなる。』とあり、まさに“The Master’s Practical Guide”、船長に対する実際的な指針と言えよう。
 なお、ここにある「良きシーマンシップ」“good seamanship” だが、本書の定義では“Skill in and knowledge of the work of navigating, maintaining, and operating a ship, and is the resultant behaviour that can be expected from a competent Master.”「船舶の航行、整備保守、運航に関する技能と知識であり、有能な船長に期待される結果としての行動である。」としている。

船長の超越権限と裁量権  

 “Masters overriding authorities and discretion”
 第3 章はこの船長の「超越権限」と裁量権について述べているが、まず定義として‘Overriding authority’ とは ‘Countermanding ing decisions by other people or guidelines’「他者やガイドラインによる決定を覆すこと」とあり、また‘Discretions’ とは‘The ability or right to decide something’「何かを決定する能力あるいは権利」とある。
 ご存じのようにこの超越権限とはISMコードA部 5「 船長の責任及び権限」にある原文“overriding authority” を「最大の責任と権限」と訳しているのだが、一般的には「超越権限」と呼んでいる。これは船長が「安全管理システム」にとらわれず、本船、積荷、旅客、環境にとって最良と判断する行動をいつでもとれる自由裁量権を意味している。
 本書ではこの「超越権限」について8 ページにわたり、語句の精密な解釈やSOLAS条約との関連、そして実際例などを挙げているのだが、ここでは船長としてのベストプラクティスとしてかかれている一節を紹介したい。
 『船長は一般的に、船主、用船者、P&Iクラブによる決定を、これらの決定が違法でない限り、安全、保安、汚染防止に悪影響を及ぼさない限り、あるいは本船の「安全管理システム」の方針や手続きに抵触しない限り、受け入れることが望ましい。
 船長は、安全や海洋環境に関する裁量権と「超越権限」を有するが、保安問題に関しては、船長は裁量権のみを有し、「超越権限」を有しない。
 船長は、船上における船主の代理人であり、船舶の所有権及び関連する法的権利は船主にあることを忘れてはならない。
 「超越権限」の行使を検討する場合、船長は早い段階で船主と意思疎通を図り、他のあらゆる可能な選択肢について話し合うべきである。 船長は、最後の手段として以外には、「超越権限」を行使すべきではない。
 船長は、「超越権限」を行使する際、またはその裁量権を適用する際に、すべての事実と状況を記録しておくべきである。これらの記録は後の調査において必要となるかもしれない』
 そして「超越権限」を行使する一例として危険物を積載したコンテナが火災となり、本船に重大な危険を及ぼす恐れがあると判断した場合、これを海中投棄するケースを提示している。

 本書の総論のごく一部を紹介したところで、早くも紙数が尽きてしまった。もちろん機会があればさらに本書について紹介したいと思っている。
 本書は当初予定されていた執筆陣の変更もあり、当然関係者の意向もあったのであろうか内容は序言にもある通り‘Commercial’ にかなりの重点が置かれている。国際紛争にともない、本船が直面するであろう法的な問題について、すなわち武力紛争法(国際人道法)などについては触れられていない。
 この武力紛争法については日本船長協会が今年中に出版を予定している「国際法ハンドブック」(真山全大阪学院大学教授執筆)に詳細に解説されることとなっている。武力紛争時における武器使用の制限、攻撃手段の規制や商船の臨検、傷病者・捕虜・文民等の保護などについて説明がなされることと思う。
 本書の始めには略語表、定義集は興味深い。定義の中にあまり馴染みのない‘Non-refoulement’という言葉があり、これはフランス語でノン・ルフルマンと読み、難民の送還・追放されない権利だそうだ。もちろん本書では海上難民の救援や下船手続きや必要な報告書などについても説明がつくされている。
 巻末には付表A.として再び「有用な海事略語集」、付表B.は海事関係条約や国際協定の一覧表、付表C. は主として本船側が発給する書類の書式である。密航者報告書“Stowaway reporting form” など普段は使うことのない書式だがいざと言う時には大変役にたつであろう。付表 D. は主としてICSや船主団体などが出版した参考文献表である。そして最後の付表E. は海事にかかわる法律用語集である。簡潔な表現で分かりやすい。当然索引も整っている。
 本書の評価は読者に委ねるが、タイトルのごとくまさに船長のための “Practical Guide”であり、船長室には備え付けておくべき参考書であろう。英語も執筆陣がフィンランド国籍やオランダ・インドなど国際色豊かでこのためか、平易で極めて読みやすい英語となっていることを付け加えておきたい。

参考資料

1 .日本船長協会月報 ‘Captain’ 第462号
 2021年4 月・5 月号、第477号 2023年
 10月・11月号
2 .船長の最後退船 – Wikipedia
3 .「船長のための海洋関係法 海洋の自由と法秩序」 逸見 真著 海文堂
4 .「英文法律語辞典」 小山貞夫 編著 研究社
5 .法律学小辞典 第5 版 有斐閣



LastUpDate: 2024-Oct-08