“OATH and HONOR”
アメリカ大統領選挙
(一社)日本船長協会 理事 赤塚 宏一
はじめに
今号はおそらく初めてIFSMAとは全く関係なく、ましてや海運・船員問題にも関係ない話題で、アメリカ大統領選挙に関する著書がテーマである。本誌が会員諸兄の手にわたるころ丁度アメリカ大統領選挙が終わっており、誰が次の大統領、すなわち第47代の大統領になっているかが判明しているかと思う。もしトランプ前大統領が再び落選するようなことがあれば、そして筆者はその可能性が高いと思うのだが、2021年1 月6 日に起きたアメリカ議事堂襲撃事件のような忌わしい事件が再び起きるのではないかと危惧している。「内戦」の危機と警告する記事もある。今回の話はこの襲撃事件の渦中にあった元下院議員によるトランプ前大統領を弾劾する本の紹介である。
10数年前に大学を辞め、いわば毎日が日曜日の筆者にとって夏休みが格別の意味をなすものではないのだが、夏休みともなると何か一冊ぐらいまとまった本を読まねばと思う気持ちがどこかにある。いわば夏休みの課題図書のような形で読んだのが題記の“Oath andHonor − A Memoir and a Warning”(「誓いと名誉 − 回想録と警告」以下 本書)である。従って本稿も中学生の宿題程度の内容かもしれず、また何か新しい解釈を試みるとかアメリカ大統領選挙を解説するのではなく本書の紹介に留まるが読んでいただければ幸いである。
Elizabeth Lynne Cheney
まず著者を紹介しておこう。通称はL i zCheney(以下 Liz)で1966年生まれとあるから現在58歳で、ジョージ・W・ブッシュ(子)大統領の下で副大統領を務めたディック・チェイニーの長女である。シカゴ大学のロー・スクールで学位を得て近東問題担当国務副次官補など国務省で様々な要職につく。
2017年にはワイオミング州から共和党候補として下院選挙に打って出て当選し2023年まで務める。2019年から2021年まで下院共和党指導部で3 番目に高い役職である下院共和党会議議長を務めた。そして2020年の大統領選挙で敗れたトランプ大統領が翌2021年1 月6日に起こした議事堂襲撃事件に対して真っ向から批判した。このためLizはトランプ一派から激しい攻撃を受け、2022年中間選挙の党予備選でトランプ一派から送られた刺客のため敢え無く落選する。
この議事堂襲撃事件の顛末とこれを調査する下院特別委員会の模様を詳細に描いたのが本稿で紹介する“Oath and Honor” なのである。現在L i zはヴァージニア大学政治センターの教授である。L i zは弁護士のP h i l i pPerry と結婚し5 人の子供をもうける。経済的に恵まれベビー・シッターなどいくらでも雇える家庭環境であろうが、5 人の子育てをしながらこれだけの要職をこなし、また本書を含め数冊の著作をものにすることに驚かされる。
外信によると9 月4 日、Lizは大学でのイベントで民主党のハリス氏に投票すると明言した。さらに6 日には父親のチェイニー元副大統領も声明を出し、トランプ氏は落選した前回の大統領選で「権力にとどまろうと噓と暴力で選挙を盗もうとした」と指摘。「党派を超え、憲法を守る市民としての責務を果たすためハリス氏に投票する」としたと報じられている。
“Oath and Honor”(「誓いと名誉」)
本書は昨年12月にアメリカで発売されたのだが、発売直後からベストセラー入りが続いているという。筆者が目にしたのは2024年4月21日の朝日新聞で外国のベストセラーを紹介する記事だったのだが、「『もしトラ』に強い警鐘」とあるのを見てすぐに取り寄せた。本書は日本の菊版とほぼ同じで372ぺ―ジ、別途Web上に掲載されている“endnotes” が69ページとかなりのボリュームである。加えて聞いたこともないような多数のアメリカの政治家、議員、議会関係者が出てくるし、アメリカの政治や議会に関する用語が頻出しなかなかわかりにくい所もあった。
しかし英語は比較的平明だし、何よりも読んで面白い。かねてより倫理観を全く欠くように思えるドナルド・トランプをなぜアメリカ人があれほどに熱狂的に支持するのか理解できないでいたので、評論家やジャーナリストや学識者だけではなく、トランプ政権を間近で観ていた関係者の話を聞いてみたいと思っていた。特に2021年の1 月6 日の議事堂襲撃事件については、アメリカでなぜクーデターに等しいと思われる事件が起きたのか知りたかった。その点については本書の著者、Lizはまさに渦中の人である。
本書は議事堂襲撃事件とそれを調査するために設けられた下院の特別委員会の活動が二つの大きなテーマとなっている。ここで議事堂襲撃事件についてWeb上の記事をも借用して簡単に記しておく。
2021年1 月6 日、当時大統領であったトランプの支持者らが、「2020年の大統領選挙で選挙不正があった」と根拠もなく言い募るトランプの言葉に煽られて連邦議会が開かれていた議事堂を襲撃した。議事堂では、前年の大統領選挙に基づく各州の選挙人の投票結果を認定し、選挙に勝利したジョー・バイデンが次期大統領に就任することを正式に確定しようとしていた最中であった。議事は中断され、議会機能が一時的に喪失した(上院が5時間53分、下院が6 時間42分)。
トランプ支持者などによるこの行動は反乱・騒乱罪・テロリズムであるとされており多くのマスコミはこの事件がトランプによる未遂のクーデターまたは自主クーデターであると報道している。この襲撃事件は、1814年英国軍によるワシントン焼き討ちでアメリカ史上初めて連邦議会議事堂が攻撃を受けて占拠された事件以来とのことである。
1 月下旬の段階で司法省は議事堂に侵入した者は約800人程だと推定しているが、Lizは1000人以上もしくは2000人にのぼると言っている。退役軍人も参加している民兵による関与が確認されていて、2 月下旬までに少なくとも31人の関係者が逮捕され、また現役の軍人も参加していた事がアメリカ国防総省により裏付けられている。逮捕者の大半は男性で、出身地はワシントン特別区と全米45州にわたり、平均年齢は約40歳であった。事件を受けてトランプは1 月7 日夜に投稿した動画で「整然とした」政権移行を約束、前年の選挙についての事実上の敗北宣言と受け止められた。
Lizはこの襲撃事件に際しターゲットの一人ともされ、議事堂で事件をその目で目撃した。その議場での行動は緊迫感に包まれている。当日、議場の控室でスピーチの用意をしていたLizのもとへ父親のチェイニー元副大統領から電話が入る。「トランプの演説を聞いたか? 彼は群衆に対してリズ・チェイニーをこの世から取り除けと語り、君に対する深刻な危機を招いている。君は狙われている。議場での君のスピーチは十分に気を付けた方が良い」と真剣に娘の安全を気遣う。これに対してLizは「怖いからと言って黙っているわけにはいかないわ。お父さん」と答える。Lizが用意したスピーチは暴徒の乱入のために議場で開陳されることは無かったが、このスピーチは本書の最大の眼目であると思うので、少し長いが引用する。
「選挙の結果は反対であって欲しかった。しかし私には合衆国憲法に対して、これを維持し、保護し、守ると神の前で誓った神聖な宣誓を守る義務がある。私は政治的に都合の良い時にのみ宣誓に従うというわけにはいかない。私達の立てた誓いは特定の大統領に与えるものではない。私達の宣誓は過去230年に亘って我が共和国を統治してきた憲法を骨格とする法体系を保護するために与えたものだ。宣誓はその時々の感情や暴徒の要求、政治的な脅威などによって曲げられるべきものではない。私達は私達の宣誓を譲歩したりはしない。宣誓は常に私達に憲法と我が国の法体系にいかなる時にも従わなければならないとしている。
憲法が私達に要求していることは何ら難しいことではない。憲法第Ⅱ条及び修正第12条に明確に述べられている。それは大統領を選ぶ権利のあるのは下院ではなく州と国民である。」 以下略
これはLizが本書で繰り返し繰り返し述べていることで、アメリカ建国の父、すなわちジョージ・ワシントンやベンジャミン・フランクリンあるいはジェファーソン等が理想として掲げた国の在り方を体現した世界最初で最古の成文憲法であるアメリカ合衆国憲法を全ての国会議員は就任にあたり遵守することを宣誓するのである。これは重い義務であるとともに大きな名誉でもある。これが本書のタイトルともなっている。これを踏みにじるトランプやその他の政治家を許せないとする。
Lizが神聖視する合衆国憲法にはもちろん問題もある。これは最近出版された「アメリカ革命」 上村剛著 中公新書にも詳述されているが、憲法に則り行動することは国会議員の責務であることはいささかも揺るがない。
Lizは襲撃事件当日は彼女の安全に強い危機感を抱いた事務所のスタッフや父親の手配したボディーガードの助けにより無事議事堂を脱出する。
Lizは本書でこの事件の経過とその後の共和党の対応を厳しく批判し、時には胸のすくような言葉で第二期トランプ政権発足に強い警鐘をならしている。
議事堂襲撃事件直後の数日間、トランプが弾劾されるべきという認識は、共和党内でもほぼ一致していたという。しかし結束は直ぐに崩れた。選挙資金支援や、将来の高い地位を約束された共和党幹部らの多くが、トランプ擁護に転じた。ある共和党議員はトランプの行為は弾劾に値するとLizに語ったが、「私は弾劾に賛成票を入れるわけにはいかない。なぜならそうすれば私の家内と生まれたばかりの赤ん坊に危険が及ぶ可能性があるからだ」と言った。これに対してLizは「貴方には多分新しい職業が必要ね」“Perhaps youneed to be in another job” と心のなかで呟く。確かに本書にはLizを始め反トランプの立場を取る人やその家族には、暴力的な嫌がらせや脅迫が今も続いているようで、本書にも数多くの例が挙げられている。銃火器の流通や所有がほぼ野放しの国にあってはその恐怖は只事ではないだろう。とはいえ民主主義国の盟主とも思われる国の国会議員たるものがこのようなていたらくに筆者としては暗澹たる気持ちだ。果たして日本の国会議員はどうだろうか。
L i zのワイオミングの自宅には“L I ZCHENEY IS A TRAITOR”(リズ・チェイニーは裏切り者だ)と書かれたプラカードを持ったデモ隊がくるが、これを自宅に招き入れて対話を試みている写真も掲載されている。デモ隊はごく普通の一般市民のようであるが、こうした庶民がトランプを擁護し、正論を掲げるLizを糾弾する理由は何なのだろう。
Lizは共和党指導部の元同僚らをトランプの「幇助者“enabler”」「協力者“collaborator”」と呼び、名指しで糾弾している。特に前下院議長のケヴィン・マッカーシーへの怒りは強く、前大統領の選挙不正の主張が虚偽であると知りながら、公の場でそれを擁護した「臆病者」、「卑怯者」、「憲法への宣誓を守る勇気と名誉に欠けている」と容赦がない。さらに本書ではその第13章を“It Turned Out ThatKevin Was Lying” として彼の虚言を暴いている。欧米では恐らく“Liar”「嘘つき」と呼ばれることは最大級の侮辱であろうと思うがよく名誉棄損で訴訟が起きないものだと心配するほどだ。さらにL i zはその第20章TRUMP’ S NOT EATING” で1 月6 日の襲撃事件が起きた22日後、すなわち1 月28日にケヴィンがトランプのフロリダの自宅で彼と並んで写っている写真を見る。襲撃事件当日議事堂の中を逃げ回り、トランプの家族に何とかこの暴動を治めるように頼んでくれと震え声で電話を掛けていたケヴィンを見ていたLizには信じられない。Lizはケヴィンがワシントンに帰って来るやいなや彼を問い詰める。彼はわざわざフロリダに行ったわけではない、たまたまフロリダにいたらトランプの秘書からトランプがこのところ食欲不振で体調がすぐれないので見舞ってやって欲しいと連絡があったので行ったのだと子供でも分かるような嘘をつく。
襲撃事件後、下院にこの事件を調査する特別委員会が設けられるがLizは共和党員でありながら、この委員会の副委員長として事件の経緯、調査を指揮する。委員会は10回の公聴会をテレビで中継し、何百万人の視聴者を集め、800ページに及ぶ報告書“Final Reportof the Select Committee to Investigate theJanuary 6 th Attack on the United StatesCapital” を作成のうえ、トランプを4 件の容疑で訴追するよう司法省に勧告した。
本書では委員会での調査の進め方が詳述されているが、忍耐強い証人尋問、慎重で的確な説明、ビデオや録音による生の証言などによって、共和党の同僚らの偽善と不誠実さ、無気力さに遠慮なく切り込んでいく様は痛快 でもある。また本書で委員会スタッフが総員 で調査に取り組む描写に“All-hands-on-deck effort for the Committee” という表現がある。このような航海用語が日常語にも溶け込んでいるのが嬉しかった。
報告書では襲撃事件当日、議事堂の警護に当たっていた警官の生々しい証言も取り上げられた。本書の第32章は“I Was ElectrocutedAgain and Again and Again” となっている。この” Electrocuted” とは電気椅子で処刑されることを言うと思うのだが、議事堂の正面で列を作り防御に当たる警官を暴徒が仲間内に引きずりこみ、制服をむしり取り、殴る蹴る、そしてテーザー銃(電撃銃)で何度も何度も攻撃され、また催涙ガスを浴びせられたと証言している。“Again” が3 度も使用されているのは暴徒による警官・守衛に対する攻撃がいかにすさまじく執拗なものであったかを物語っている。そして140人の警官及び守衛が襲われ負傷し、結果的にこの襲撃事件で5 人が死亡した。
トランプ政権の関係者の証人喚問も困難を極めたようだ。証人の多くは証言することにより、失職や地位が危うくなること、誹謗中傷、さらには脅迫、身体への直接攻撃の危険すらあるのだ。トランプの側近の補佐官を務めていた女性はトランプ側の強いプレッシャーやストレスにもかかわらず証人喚問に応じた。証言は非公開で行われそれが終わると、Lizは彼女に近寄り抱きしめて言う。「知って欲しいことがあるの。私には貴女と同年代の3 人の娘がいる。もし彼女たちが貴方のような立場に置かれたら、母親として望むことは彼女たちが貴方と同じような勇気を持っていることを示すことだけだわ」 そして元補佐官の彼女の眼から見る見るうちに涙が溢れた、とLizは書く。そして補佐官は全ての地位を失った。
Lizの勇気は政策面では意見を異にする民主党寄りのメディアからも賞賛された。ただ「1 月6 日にすべてが変わった」と書くLizには、前大統領の絶え間ないウソや、規範の軽視、政府機構への攻撃は大統領職の終盤だけではなく、トランプの任期中、常にあったことであり、その間、Lizは何も変わらなかったのか、何をしていたのかとの批判もあるそうである。
前大統領に反対し、民主党寄りの立場を取ったLizはまず共和党下院指導部のポストを失い、22年には地元のワイオミング州の下院予備選でトランプが放った「刺客」に敗れたことは前述のとおりである。支持者の離反に「トランプべったりのF O Xニュースで、キャスターのでたらめな言葉を信じてしまう」とLizは嘆く。議席を失うことを厭わず反トランプを貫いた共和党議員はLiz以外にほとんどいなかった。心の支えとなったのは、特別委員会に加わることを決めたときに父親から言われた「あなたを誇りに思う」“I’m proud of you” という言葉だったという。
今や共和党は「憲法を支持する政党ではなくなった」とまで語る。「これは単に一人の錯乱した人物の問題ではなく、大きな流れだ。とても悲しい事だが、アメリカはもはや、共和党議員が国家を守ることを頼りに出来ない」と結論付ける。
前大統領トランプは、さまざま法的問題を抱えながらも共和党大統領候補として「もしトラ」か「ほぼトラ」の地位を固めている。アメリカは「夢遊病のように独裁政治に向かっている」、「もしも二期目のトランプ政権が誕生すれば、アメリカの民主主義は崩壊する」、「いま最も重要なことは、間違いなくドナルド・トランプを阻止することだ」とLizは繰り返し訴えている。
おわりに
筆者は1945年の日本敗戦時に小学校一年生であった。これ以後受けた教育はアメリカを範とする民主主義教育である。それは政治の形だけ民主化するものではなく、そもそも民主主義とは単なる政治上の制度ではなく、社会生活の在り方であり、社会生活を営む上で社会を構成する全て人々が身に付け実践すべき事と習った。いわばアメリカの言うがままの教育であったかもしれない。そうであったにしても民主主義の重要性は変わるものではなく、またアメリカが民主主義を基盤とした近代国家のモデルに近いものであって欲しい気持ちは今も変わらない。
今からちょうど半世紀前1972年から75年、筆者はニューヨーク支店で陸勤をしていたのだが、当時の大統領はニクソンであった。1972年2 月にウォーターゲート事件発生、1974年8 月にはニクソンが辞任しフォードが大統領に就任する。上院で本件に関する特別委員会はテレビで放映され、時間の許す限り見た。支店内でもよく話題となり、またアメリカ人スタッフから解説してもらったこともある。この間事件のもみ消し、捜査妨害や明白な司法介入があったが、結果的には円滑な政権移行が行われたと思っている。民主主義体制は曲がりなりにも維持されたのだ。
今回の事件はウォーターゲート事件とは比較にならぬ深刻な事件だと思う。トランプが何をしたのかは下院の特別委員会報告書で明らかである。後はトランプに対し責任を問い、厳正な処分を行うべきである。アメリカの最高裁は大統領の在任中の公務に関する行為については免責を認める判断をしたが、それは
それとして事実は明確に認定されるべきと思う。それにしてもこのような人物が再び大統領候補としてアメリカ国民の半数に近い人々から熱烈な支持を受けている事実は、いくら説明されてもまた本を読んでも筆者にはなかなか理解できない。アメリカのラストベルトにでも身を置いてみれば実感できるのであろうか。
本書の英語は比較的平明と言ったが、筆者がどこまで理解出来たかはいささか覚束なく、本書が権威ある翻訳者/出版社により翻訳・出版されること心から望んでいる。
参考資料
1 .朝日新聞 2024年4月21日朝刊 Globe
2 .「選択」2024年9月号 「アメリカが直面する「内戦」の危機」
3 .2021年アメリカ合衆国議会議事堂襲撃事件−Wikipedia
4 .「それでもなぜ、トランプは支持されるのか」−アメリカ地殻変動の思想史− 会田弘継 東洋経済新報社
5 .「アメリカ革命」 上村 剛著 中公新書