“SEA−TIME”
~−An Ethnographic Adventure−
(一社)日本船長協会 理事 赤塚 宏一
はじめに
英国の西部、ウェールズの最大都市カーディフはセヴァーン河河口に面している。昔は良質なウェールズ石炭の積出港として栄えたところである。ここにカーディフ大学がある。カーディフ大学には国際船員問題研究センター(Seafarers International ResearchCentre 以下SIRC)がある。ここで年1 回開催される船員関係のセミナーに2 回ほど参加したことがある。そして今は世界海事大学(WMU)の教授を務める北田桃子さんが学位を取得したところでもある。北田さんが日本財団の奨学生としてSIRCに在籍していた時、財団の依頼を受けて故原潔元神戸商船大学学長と共にSIRCの評価・業務監査に訪れたことがある。このSIRCのセンター長がDr.Helen Sampsonである。
前置きが長くなってしまったが、今回はこのDr. Helen Sampsonが書いた“SEA-TIME”(以下 本書)を紹介したいと思う。本書は 2024年にRoutledge社からRoutledge Advances in Ethnographyのシリーズの一冊として出版されたものだ。このエスノグラフィー(民俗誌学)とは文化人類学の用語であるが、近年では社会学でも盛んに取り入れられており、その手法は参与観察と呼ばれるようだ。一般に観察というと観察者と観察対象者とは隔てられているが、この参与観察では研究者は研究対象とする文化の中に身を置き、観察対象の人々と交わりながらその生活や思考を深く理解する。本書はまさにこの参与観察の手法を解説したような本だ。副題として‘A n E t h n o g r a p h i cA d v e n t u r e’「民俗誌学の体験」とあるが、まさにその通りだと思う。
本書には前述の北田教授の博士論文(Kitada,M(. 2010)Women seafarers and their identities. PhD thesis. Cardiff University.Available at*www.sirc.ac.uk/Women_Seafarers.apx)も参考文献として挙げられている。
本稿を書くにあたり、Dr. Helen Sampson
(以下Helen、もちろんfirst nameで呼び合うような付き合いでもないし、彼女の記憶に残っているかも疑わしいが、簡便のためである)に連絡を取り、日本船長協会会員へのメッセージを依頼したところ、下記のメールが送られてきた。
『日本の船長及び航海士の皆さんへ
私は25年間、船員の生活と仕事について研究する機会に恵まれました。その際、正式なインタビュー、体験航海、調査、非公式な会話で得た多くの船舶職員や部員の言葉や見解から情報を得てきました。この本を書くことで、船員ではない人たちにも、海上で働く人々の生活や社会を知ってもらいたいと強く願っています。同時に、船員社会を管理・規制する人たちに、自分たちの決定や指示が商船で働くすべての船員に与える影響を思い起こさせたいと願っています。本書が船員の業務に対する献身についての理解を深める一助となり、政策立案者や船舶運航会社の担当者のモチベーションを高め、世界の商船部門で働く男女船員の労働・生活環境の改善につながることを切に願っています。』
本書については“Seaways” February 2025及び“Telegraph” May/June 2024に紹介されているので、まずは引用してみたい。
“Seaways” by David Reid MA FNI『何らかの形で海上勤務を経験した者にとって、“SEA-TIME” という言葉は、船上で過ごした記憶を呼び起こすか、次回の乗船や下船を思い起こさせるだろう。
Helenにとっては、船員の生活を調査するため、16年以上にわたって10回に及ぶさまざまな航海の一つを思い起こすかもしれない。
Helenはカーディフ大学の教授で、SIRCのディレクターでもある。彼女の最新作“SEATIME”は、コンテナ船ベルーガ号での航海に焦点を当て、それ以前の航海からも資料を集めている。Helenはパナマ運河で同船に乗船し、黒海の港を含む大西洋から地中海を定員外船員として航海した。
Helenの研究の目的は、船員のエスノグラフィック調査である。エスノグラフィーは、社会科学や行動科学でよく用いられるデータ収集のための質的手法である。観察やインタビューを通じてデータを収集し、それをもとに社会や個人の機能について結論を導き出す。しかし、この本が決して無味乾燥というわけではない。ベルーガ号は私の乗船したようなタイプの船ではないがHelen は、乗船中の出会いや観察の一つひとつを、そして船員の生活を元船員である私にとって、その一瞬一瞬をイメージしやすい文体で描写し、そのすべてを文章で表現してくれた。
第7 章の‘The ebb and flow of time’ が最も興味深く、彼女の陸上での生活と職業を基にした見方が反映されている。陸上で仕事をしている人は、病欠の電話をしたり、私的な休暇を取ったりすることができる。船員の生活にはこのような慣行はありえず、乗船から下船まで、誰もが常時当直や勤務に適していることが期待されている。Helenは、救命艇の事故、ギャングウェイとパイロット・ラダー、閉鎖空間、疲労など、“Seaways” で頻繁に取り上げられる問題の多くに触れている。しかし、Helenが船員へのインタビューに基づき、それぞれの問題について書いている点と、インタビューの裏付けとなる参考文献を引用している点が異なる。
私が“SEA-TIME” を読んでわかったのは、Helenが、あらゆるエピソードや観察の間に、その表面下にあるもの、そして彼女がそれらの根本原因を理解するための正しい方法を理解しているということだ。それは、ベッドのマットレスの質の悪さから、24時間、時を選ばず追いかけてくる陸上からのコミュニケーションの負担に至るまで、すべてをカバーする商業的プレッシャーが常に存在していることだ。海運の歴史は常に好況と不況に翻弄されてきた。好不況の波は、船員の日常生活にまで影響を及ぼし、大きな変化をもたらす。海運がブームとなり、船員不足になると、船員の待遇や条件が改善される。ブームが去り、このサイクルが下降に転じると、真っ先に影響を受けるのは力の弱い船員だ。コスト削減の必要性に迫られた船主や船舶管理者が、最もコストの低い国から船員を集め、もっとも安い便宜置籍国へ移籍しコスト削減を図ろうとするのだ。
Helenは、コスト削減がマンニングに与える影響と、稼働率やチャーター・パーティのスピードやエンジン性能に関するKPI(注:Key Performance Indicatorとは、「重要業績評価指標」と訳され、企業や組織の目標達成の進捗を測るための定量的な指標)のような指標により本船に与えるプレッシャーについて考察している。荒天時でさえも、ショートカットさせたり、人命を危険にさらすかもしれないリスクをとったりする商業的プレッシャーが加わる可能性がある。Helenは、エル・ファロ号(注:2015年9 月バハマ沖でハリケーンに遭遇し沈没、米国人28名、ポーランド人5 名全員が死亡した海難事故、本書には沈没寸前の本船船長と陸上の悲痛な交信について引用している)やヘラルド・オブ・フリー・エンタープライズ号の遭難をはじめ、商業的プレッシャーが人命損失につながった多くの事例を挙げている。
最終章に、Helenは船員の生活環境改善のための提言をいくつかまとめている。これらの勧告は、彼女の調査結果に基づくものだ。女性船員特有の問題点も含まれている。フィラデルフィアの港でポート・チャプレンを務めていた時、私は多くの女性船員や船長に出会った。そしてHelen の勧告は最も当を得たものと信じる。
Helenが社会科学部で教鞭をとるカーディフ大学が、商船を如何に管理するかという課題を扱うエスノグラフィー研究を発展させてくれることを期待している。そうすれば、私たちの職業と海事産業全体のために大いに役立つだろう。船長が理解すべきことは、安全な航海や貨物の輸送だけではない。今日の船長は、海事・海運の法的枠組みの中心にいる人物だ。陸上で働く会社幹部や経営者は商業的プレッシャーから免れることはできないが、船上では商業的プレッシャーはレーザーのように船長に向けて絞られる。現在の教育・訓練制度は、船長が船主や運航者から要求されたことが実現困難で安全でない場合にどのように対応するのか、どのように正しい選択をし、そしてそれをどのように伝え理解させることを体得するのに十分な準備なシステムとなっているのだろうか。
海難などの場合、船長が厳しく処罰される一方で、陸上の経営者・管理者たちは陰に隠れたままであることを見聞きすることが多い。
Helenは、船長とともにイスタンブールで下船したが、ベルーガ号のギャングウェイを離れた瞬間、船長の人格が変わったことを観察している(後述)。
船長のエスノグラフィーを研究することは、おそらく私たち海運関係者を啓発してくれるだろう。Helenなら、この難題に挑戦できるだろう。』
“Telegraph”
上記“Seaways” の書評と重複する点もあるがそのまま記載する。
『 ‘Powerful Academic Appraisal of Life at Sea’
―海上生活の力強い学術的評価―
Helenほど、世界の船員の生活に対する認識と理解を高めることに尽力した人はいない。SIRCのパイオニアとして、ほぼ4 分の1 世紀にわたり、重要な調査報告書を発表してきただけでなく、船員という職業の行動、感情、動機について、より深い認識を培ってきた。
本書では、船員の仕事振りをつぶさに観察・分析し、調査結果だけでなく、船員から何を教えられたか、船員の生活を改善するために何をすればよいかを考察している。
Helenの本は率直で生々しく、はっきりしない入港時間や出港時間をめぐるもどかしさや齟齬から(下船のためのホテルや航空便手配など)、多くの船に支給されている質の悪いマットレスで寝ることの難しさまで、船上生活の現実を真正面から観察している。
Helenは、彼女の最初の航海からどれだけ多くのことが変化したかを指摘する。とりわけ、9.11テロ以降のセキュリティ規則(ISPSコード)が、これまでにも限られていた上陸の機会を侵食していることを挙げる。また、本船運航を陸上から細かく管理するようになったことで、船員の技術や技能、そして経験が軽視され、一方では終わりの見えないペーパー・ワークやチェック・リストの採用、規則やルールの厳格なコンプライアンス文化によって船員の自主性が軽んじられるようになったことも指摘している。
Helenは乗船調査にあたってセクシャルハラスメントから故意に妨害する船長に至るまで、彼女が調査中に直面した困難について正直に語っており、本書では率直な意見や感情を分かち合うことに消極的な船員たちの信頼を得るための、時に困難なプロセスについても述べられている。
特に力強い文章は、船上生活のリズムをとらえたもので、港での狂乱ともいえる時間から海に出てからの定型的なパターンである生活、そしてこれに時差が加わる毎日へと変化する描写だ。これは、船員が時間との奇妙な関係をどのように扱うかについての深い考察につながる。
海運は「ロックンロールを失った」と警告するHelen は、刑事罰の対象となる海洋汚染防止関連の規制要件に直面する船員が感じるストレスについて語る。また、コロナの世界的大流行の最中、グローバル・サプライ・チェーンを維持するために、船員の権利がいかに迅速かつ簡単、そして徹底的にはく奪・放棄されたかを指摘する。
このような事態が多くの船員に与えた悪影響について、Helenが人間味あふれる描写で書き記した本書を読んで憂鬱になるのは簡単だ。しかし、この本は、「やる気のある企業」が船員の生活に真の変化をもたらすことができるような、タイムリーで思慮深いリストで締めくくられている。』
筆者の読後感
本書は2024年に出版されたもので菊版、約230ページ、1 ページ42行、細かい活字で結構なヴォリュームである。本書はこれまでの乗船調査で書かれたフィールド・ノートを多く引用し、またHelen が本船で撮った写真も何枚か掲載されている。
“Telegraph” の書評に「本書を読んで憂鬱になるのは簡単だ」とあるが、まさにこれは筆者の読後感だ。筆者は1980年代に10隻に及ぶ外国船にSuper Cargo として乗船し、多種多様な貨物船と多国籍船員と乗り合わせたが、それはそれなりに厳しい船内環境であったが、本書に書かれているような過酷な労働環境・船内居住環境ではなかったように思う。
エスノグラファーは「力を奪われる側に立つ」のが多くの場合の基本姿勢だそうで、商業的プレッシャーに押しつぶされそうな船長や船員だが、Helenの乗船した船長達は何とも不甲斐ないと思う。Helenを船主の回し者か会社のお目付け役かと疑い、怪我でもされたり、問題でもおこされたら大変だと厄介者扱いし、一人でデッキへ出ることを禁じるなど行動の自由を制限する、あるいはHelen がブッリジでたまたまクシャミをしたら、もしロシアの港に入港した折の官憲の前でクシャミをしたら本船はコロナを疑われ拘留されると本気で心配する。そして船長が如何に船内で権力を持っているかと誇示したり、あるいは深夜の船長室でお茶をしようと誘うセクハラまがいの船長もいる。
特にベルーガ号の船長はHelen に‘erratic,irascible and difficult person、so suspicious’(行動が突飛な、風変わりな、怒りっぽい、短気な、気難しい、そして疑り深い)人間と扱き下ろされている。しかしこの船長も下船した途端に人が変わる。Helenと一緒に空港に向うタクシーの中で彼は‘open,expansive’,“gentleman”(開放的、打ち解けた、紳士)、そして‘animated fashion’(生き生きとした様子で)で話をすると書いている。こうした船長の乗船中の態度もすべてあまりにも重大な責任と強烈な船主・運航者からの商業的プレッシャーのなせることなのだろう。
本書でも何度か触れられているが、一般船員のみならず船長も常にいかにして次の乗船機会を確保するかに神経を尖らしている。船主・管理会社にホサレルことはまさに死活問題なのだ。
本書ではたびたび‘wasting time,wastinglife’ とか‘sacrifice’ ‘prison’ ‘ incarcerated’(監禁)などの言葉も出てくる。そしてとっくに死語(死句?)となっていたと思っていたサミュエル・ジョンソン博士(18世紀中頃最初の英語の辞書刊行)の船乗りについての定義:
‘No man will be a sailor who has contrivance enough to get himself into a jail;for being in a ship is being in a jail,with the chance of being drowned.’
『牢屋に入る術を持つ者なら、誰も船乗りにはならないだろう。船にいるということは、溺れる可能性のある牢屋にいるのと同じだからだ。』という言葉まで出てくる。あの異常なコロナ禍についてはここでは触れないが、一応コロナ禍が治まった現在でも上陸の機会は極めて少ない。ISPSコードの厳格な適用というよりコロナ禍に便乗して港湾当局も官憲も船社も代理店も船員の上陸許可などの煩わしさを避けているのだ。そして入港中は今や船員の憩いの場とは程遠く、ポートステート・コントロールや他の多くの検査や官憲との対応で船員には試練の場だという。多くの船舶は多国籍船員で雇用契約もまちまち、乗下船地もまちまち、加えて貧弱な本船上のレクリエーション設備、また本船で作ったバスケット・ボール・コートも怪我の心配があるからと干渉する船主、‘dry ship policy’(厳格な禁酒船)を標榜する船社も増えて、かつてはどの船でもよくおこなわれたバーベキューも殆ど行われ無くなった言う。これでは船内での交流もレクリエーションも行えない。やっと出来た友情も‘friendship ends at the gangway’ というわけだ。何とも殺伐たる風景だ。これでは「時間を、人生を無駄にしている、犠牲にしている」との嘆きも当然だろう。このような感情を持つのは他の産業の労働者と比較して明らかに船員に多いことはこれまでの調査でも判っていることだという。
それは‘We trade parts of our lifetime for money to support our families, this trade involves the sacrifice of time for work but also the trade of ‘dead time’ for money.’ これは家族を養うために人生を犠牲にして稼ぐ、そしてこれは働く時間のみではなく本来は自由であるべき時間をも犠牲にしている、ということだろう。
おわりに
Helenが最終章に挙げた提言について箇条書きにしてみよう。
1 .一般社会との相互通信能力の向上
全ての乗組員が自室で無料で速度の速いインターネットに接続し、家族・友人は言うに及ばず一般社会と常時繋がることを可能とすること。
2 .居住区の改善
防音性の向上、良質なマットレス(これはHelenが本文中で何度も不平を言っているものでベルーガ号のマットはよほど安物だったのだろう)、完全に遮光出来るブラインド、リネンやタオル、毛布などの定期的な支給・交換、石鹼やトイレットペーパーの十分な補給、個室毎に調節出来る空調設備、バスルームの独立したファン、明暗を自由に調整出来る照明設備そして船員からの要望の多かった室内の収納スペースの拡大。
3 .上陸とりわけ陸上の医療施設の利用
これは何度も本書で触れられている深刻な問題で適切な医療サービスを受けられるか否かは船員にとってまさに死活問題であることに異論はないであろう。
4 .レジャー施設
かつて欧州で欧州船員が乗り組むことを前提にして建造された船舶はそれなりにレジャー施設も充実していたが、ここ20年来の船舶は船価節減と貨物スペース優先のためにまことに貧弱なものでしかないという。これは居住設備改善と共にHelen が最も力説するところで、図書室や体育室は言うに及ばずプールやバー、ラウンジなど多くの施設の必要性を強調している。そして船長にレクリエーション・リーダーとしての訓練を施せとも書いてある。筆者の船社在籍中には確かレクリエーション・リーダー講習があったと記憶しているが、日本船社は当時数十年も先を行っていたのかなと思う。
5 .食事
食事の質は船員にとって船の良し悪しを判断する一番の要因だとしているが、上陸もままならぬこのごろの船員生活では当然のことであろう。Helenが乗ったある船はシリアルもケチャップもマヨネーズもジャムもこれまで聞いたこともない中国製のまがい物で全く食べる気もしないと書いている。Helenがこの項で力説しているのは現行の海上労働条約(MLC2006)が調理手について適切な訓練や指導の必要性については言及しているが、定員については述べていないので、これは是非とも改正し、最低定員を定めるべきであると している。
ここに挙げられた多くの提案はほぼ全てが海上労働条約に関わるものであるが、多くの規定が任意規定であるか、あるいは曖昧又は精神規定であり、実際の船内環境向上に至るには力不足は否めない。今年4 月にジュネーブで開かれたILOの三者特別会合ではこの海上労働条約改正案が採択された。船員が‘Key Worker’(基幹労働者)として正式に認定されたとか、船員の上陸が健康とウエルビーイングのためにぜひとも必要とされその権利が強調されるなど多くの点で船員のための福利厚生や権利の向上が図られた。この改正案は2027年12月に発効する予定である。本書でも随所に海上労働条約について言及があるが、残念ながら船員はMLC ‘ is a tiger without teeth or claw’ すなわち「張り子の虎」みなしている。
6 .女子船員
女子船員にとっては船内労働環境・船内生活がいかに厳しいか容易に想像がつくが、とりわけHelen自身が女性であることから生理問題も含め詳細に論じている。一人の人間として、海に憧れた同士として、快適な職場環境を形成すべきであろう。
7 .職員の定員増
膨大なペーパーワークと陸上各方面と時間を問わない連絡・交渉のために船舶職員の定員増員の法制化、また電気技士の強制化。
定員増ではないが、興味を惹いたのはバンカリングに際して船社は必ず中立のサーベーヤを手配すべきとの提言である。Helenの乗船した殆どの船ではバンカリングに際して、業者の不正行為、とくにバンカー・バージの量的なごまかしに悩まされ、それが機関長及び機関士の大きな負担になっているという。
本書ではHelen(Professor Helen Sampson)は学者として冷徹な観察眼で船内生活の実態を、船員の心理状態を描写してくれたと思う。これまでのSIRCの数々の調査や論文は船員生活や船内労働環境の改善に貢献をしてきたが、本書は学術論文とは違った面からより多くの人々に読まれ、船員社会の向上に役立つことを願っている。
本書には下記のような否定的な言葉が二度三度出てくる。
‘The happiest day of a seafarer’ s life is when he stands at the gangway with his luggage and waves goodbye to his former companion.’
これは「船乗り稼業の最大の喜びは下船の時だ!」と言うことだろうが、これではあまりにも寂しい。まずは海事・関係者はこうした船員のおかれた状況を把握し、Helenの提言を一つでも二つでも実現するように努め、さらには海上労働条約をより実効性のある規定へと改正し、世界の海に憧れる男女に対し、働き甲斐のある少しでも人間らしい、労働環境を提供して欲しい。
そして、世界の船員が初乗船の時、胸をときめかした様にいつでも
‘The happiest day is standing on the gangway, looking up at the ship of my dreams just boarding!!’
となって欲しいものだ。
最後の挨拶 -His Last Bow-
「I F S M A便り」も今号を以って100回となった。これまで読んで下さった会員の皆様に心から御礼申し上げる。「IFSMA便り」は2008年日本船長協会がIFSMAに再加盟するにあたり、IFSMAについて会員諸兄にもっと知ってもらおうとの趣旨で当時の森本靖之会長の勧めで書き始めたものである。以後17年間、一度筆者が急性心筋梗塞で緊急入院して休載した時を除いて毎号寄稿してきた。「IFSMA便り」とあるので、主としてIFSMAの理事会や総会の報告、IMOやILO、あるいは欧州委員会でのIFSMAの活動などを報告してきたが、国際的な海事・海運関係の動向なども報じてきた。また海事とは関係のない一般的な国際事情を書いたこともある。
しかし一昨年10月のIFSMA東京総会において20年余、務めてきたIFSMAの役員を辞したこともあり、100号を機会に筆を擱くことにしたい。
今後は中村紳也会長に後を託すこととして、ここであらためて森本元会長、連載を始めた時の月報の編集長であった池上武男船長、そして最も長く付き合って頂きいつも綿密に拙稿を読み貴重なアドバイスを下さった増田恵編集長、さらに本年度から編集を担われる松田洋和船長に感謝したい。
「IFSMA便り」はもう書かないが、海事・海運は汲めども尽きぬ面白さがあるので、会員諸兄にも興味があるのではないかと思うテーマがあれば書かせて頂きたいとも思っている。
今筆者の望みは「安楽椅子探偵」“Armchair Detective” ならぬ「安楽椅子船長」“Armchair Captain” である。この「安楽椅子探偵」とは会員諸兄はよくご存じかと思うが、現場に赴くなどして自ら能動的に情報を収集することはせずに、室内にいたままで、来訪者や新聞記事などから与えられた情報のみを頼りに事件を推理する探偵やその小説を指す。アガサ・クリスティの「ミス・マープル・シリーズ」もこのジャンルに入るそうだ。この‘His last bow’ も「安楽椅子探偵」ではないが有名な探偵小説からとったものである。
筆者ももっぱら新聞や雑誌、“I F S M A Newsletter”、外国文献あるいはネット情報などで海事・海運・船員情報を楽しみ、また共有したいと思っている。
最後になるが、日本船長協会のますますの発展と会員諸兄のご活躍を祈念して本稿を終わりたい。
完
参考資料
1 .“SEA-TIME -An Ethnographic Adventure-”Routledge
2 .「エスノグラフィ入門」 石岡丈昇 ちくま新書
3 .“Seaways” February 2025 P.7
4 .“Nautilus Telegraph” May/June 2024 p.63
5 .“A New History of British Shipping”Ronald Hope p.231
6 .“IFSMA Newsletter” #88 for May 2025.
7 .Wikipedia「安楽椅子探偵」