IFSMA便りNO.9

(社)日本船長協会事務局

IMO STW 小委員会

1月のロンドンは30年ぶりの寒波とかで郊外は真っ白、ロンドン市内も粉雪が舞っていた。
夕刻ハイド・パークの北にあるホテルにチェックインした。
北緯52度にあるロンドンは日の暮れるのが早い。
外はもう真っ暗だった。
ここはかってIMO(国際海事機関)の会議に出席する日本代表団の定宿であったが、最近はインターネットが自由に使える近所のホテルを使うことが多いという。
部屋はラジエーターが一つと、やっとノートパソコンが載る小さな机、小さなテレビとなにもかもつつましい。
このホテルでは昔、殺人事件があり、当日同じ階に泊まっていた日本代表団の一人が警察に事情聴取されたといういわくつきのホテルである。
またジェフリー・アーチャーのスリラー小説にも出てくるホテルである。
それはさておき、今回のロンドン出張はIMOのSTW 小委員会(訓練・当直基準小委員会)に出席するためである。
STW 小委員会は船員の教育や訓練、当直基準、あるいは資格証明書(海技免状)の発給に関わる事項を審議する小委員会で、海難対策にもっとも重要な人的要因について審議する重要な委員会であり、その審議対象となるのは主としてSTCW 条約(船員の訓練及び資格証明並びに当直の基準に関する国際条約International Convention on Standard of Training, Certification and Watchkeeping for Seafarers)である。

全体会議場

STCW 条約

この条約は海上交通安全や海洋環境の保護を確保するための国際的な法制の四本柱の一つと位置づけされている。
その四本柱とは
海上人命安全条約
SOLAS 条約1935年発効
海洋汚染防止条約
MARPOL 条約1983年発効
STCW 条約
STCW 条約1984年発効
海事労働条約(ILO)
MLC 2011年発効予定
である。
この四本柱の三本はIMO で採択されたものであるが、最後の海事労働条約はILO(国際労働機関)で2006年に採択されたものである。
まだ発効していないが、本年中には発効要件を満たし、2011年末の発効はほぼ確実視されている。
この海事労働条約は船員の労働環境に関わるものであるところから、同じく船員を直接の対象とするSTCW 条約とは極めて縁が深い。
後に述べる船員の休息時間なども両条約で扱っており、その条文の整合性が今回の委員会でも審議事項の一つであった。
さて、このSTCW 条約が成立した経緯については、会員諸兄はもうご存知のことと思うが、念のため簡単に書いてみたい。
1967年、英仏海峡においてトリー・キャニオン号の海難により大規模な海洋汚染がおこり、その後もタンカー海難事故の続発し、事故原因の一つとして船員の質に注目が集まり海技資格の国際的な基準の作成の必要性が痛感されたため、IMO にて審議されSTCW 条約の採択となったものである。
この条約は1978年に採択され、1984年に発効した。
1995年にSTCW 条約の大改正が行なわれた。
これはSTCW 条約発効後も海難事故は後を絶たず、また海難事故の原因の80%以上が人的要因と認識され、さらなる船員の質の向上が要請されたからである。
この大改正はSTCW 条約のCONCEPT そのものを変える大作業となった。
その要点は次の2点である。


1.実務能力ベースの規定へ

一つはそれまでの条約がKnowledge Baseであったのに対し、改正条約ではCompetent Base としたこと、その二は条約の実効性を検証するシステムの導入である。
これらの点について少々説明してみよう。
それはSTCW条約を理解する上で重要だと思うからである。
Knowledge Base とはそれまでの条約が船員に要求するのは、「Working knowledge」、あるいは「an understanding of ――」または「an adequate knowledge of ――」など、要するに知識があり、その事柄を理解していれば良く、それらを実際に業務として行なう技能や能力は問われなかったのである。
言って見れば机上の演習、あるいは畳水練的な教育・訓練でも良かったと言える。
改正後の条約はご存知のように船上でどの程度、能力が発揮できるかを主眼に船員として要求される能力の具体的な内容、それを証明する方法、評価の基準までこと細かに定めている。
すなわち条約では、職務に必要とされる最小限の能力基準について下記のような表を掲げ詳細に記している。
Competence 能力
Knowledge, Understanding and Proficiency 知識・理解及び技能
Methods for demonstrating competence 能力の証明方法
Criteria for evaluating competence 能力評価の基準
例えば、船長及び一等航海士の能力としての「航海当直体制及び手順の確立」では必要とされる知識・理解及び技能では、「衝突予防法の内容、適用及び目的に関する十分な知識」「航海当直の維持に当たり遵守すべき基本原則の内容、適用及び目的に関する十分な知識」「効果的な船橋共同作業手順」が要求され、その能力の証明方法として「試験及び承認された海上履歴やシュミレータによって得られた証拠による評価」となっている。
能力評価の基準では「当直体制と手順を安全航海、海洋環境の保護、船舶及び乗船者の安全を確保するために国際規則と指針に基づいて確立し、維持すること」としている。


2.ホワイト・リスト

次に条約の実効性の検証については、改正前の条文では「Standards to satisfaction of administration―主官庁の満足する基準」とあり、各国の主官庁がそれぞれの基準で船員の知識を評価し、海技免状を与えていたといえる。
これでは国際条約としての意味が薄い。
このため改正条約では各国が「条約の規定に十分かつ完全な効果が与えられていること」を検証し、条約を遵守していることを認定することとなった。
認定された国の一覧表がいわゆるホワイト・リストである。
この検証のために、各国から有識者が推薦され、5人一組となってパネルを設置し、各国の船員教育訓練制度、資格証明書の発給制度や管理などを評価することとなった。
筆者もこの有識者の一人として豪、米、シンガポール、ノールウェーの有識者と共にIMO で最初の評価対象国である中国、その後フィリッピン、インドネシアの評価に当たった。
もちろん日本も評価されたが、果たしてホワイト・リストに首尾よく載るかどうか関係者はそれなりに心配したものである。
しかし、このホワイト・リストの検証システムも私見では所期の成果を挙げていないように思われる。
有識者パネルの評価を受けるために自国の船員教育に関わる情報を提出した国は全てホワイト・リスト入りしたようで、このシステムにより教育環境の整備が特に進んだようにも思われない。
理由の一つとして考えられるのは、有識者に対する国なり、IMO の支援が十分ではないのではないだろうか。
筆者が有識者を辞任して数年経つので、事情は異なっていることも十分考えられるが、船員供給国の教育・訓練や証書の発給、管理システムなど一国の体制に関わる情報としての書類や書式のサンプル、関係法令集は積み上げると優に1メートル以上にもなる。
これを読み、理解し、そして問題点を把握するのは相当な労力、エネルギーそしてある程度の財政的負担も生じる。
こうした点につき有識者を支援するシステムがないと、当該国も結構な費用や時間を掛けて提出した船員教育システムに対する正当な評価が受けられないことになる。

STW 小委員会(訓練・当直基準小委員会)

さて、今回の大改正、正確にはSTCW 条約の包括的見直しといっているが、これは1995年の大改正後、15年を経て、この間の造船及び運航の技術革新、環境保護意識の高まり、船員を取り巻く社会環境の変化を踏まえて、条文を改めて見直し、時宜にかなったものとすると共に条文の整合性の確保などを目的としている。
この作業はIMO の海上安全委員会(MSC)の下部機構であるSTW 小委員会で行なわれてきた。
今回の小委員会は改正案を最終化するための会議であり、ここで最終化された改正案は6月マニラで開催される締約国会議で審議され必要な手続きを経て採択されることになる。
今回の小委員会は1月11日(月)から15日(金)までの5日間行なわれた。
議長はジャマイカ出身の海軍少将であり、参加者は77ヶ国及び香港及びフェロー諸島、そしてIFSMAを始めとする29の諸団体の代表であり、数百人の規模である。
日本代表団は国土交通省海事局の方々及び東京海洋大、神戸大の教授、航海訓練所の教官など総勢10名あまりである。
代表団の顔ぶれをみると商船大学の同窓生も多く、船員教育の現場や海上勤務についての経験も十分であり、その意味で心強いが、それで十分と言うわけではない。
こうした条約の包括的な見直しを行なうためには多角的な視点が必要なのである。
審議の模様については、詳述を避け、会員諸兄に関係ありそうな事柄に絞ることにする。

1.身体基準証明書

色覚についてこれまで、具体的な基準はなかったが、「国際照明委員会(CIE)における運輸事業従事者向けの色覚基準に関する勧告を基準として取り入れ、“業務に支障のない色覚”」との趣旨を規定すべきとされた。
これは日本の提案である。

2.電気技士資格

外国船には電気技士、エレクトリシャンが乗っていることが多いが、この船舶電気技士を養成する部門を持つ東欧の大学などから国際資格の規定を強く要請されていたものである。
今回の見直しで電気技士の「職員レベル」と「部員レベル」を設けることとなった。
「管理レベル」、すなわち電気技士長などの導入の必要性について6月の締約国で改めて審議されることとなる。
また、「機関部職員の資格は電気技士の資格を包含する」旨を条文に明記することにより、現行の機関部の職員制度を変えるものとはならない。

3.資格証明書の更新

資格証明書の5年毎の更新に際し、全ての船員に対する基本的な安全に関する訓練、救命艇及び救助艇等に関する訓練及び上級消火訓練、すなわち現行の付属書6-1規則、6-2規則及び6-3規則に規定する訓練要件について、5年毎の“再教育訓練の受講”及び“能力証明”の義務付けが提案されていたが、5年毎の“能力証明”の義務付けのみが合意され、“再教育訓練の受講”の義務付けについては反対多数により否決された。
この審議において日本代表団は「高所から海中への安全な飛び込み」などが要求されれば、比較的年齢の高い船員は己の意志に反して船員を辞めねばならぬだろう」と訴えて多くの共感を得た。

4.最短休息時間規制

これは、本稿の始めの部分で述べたILOの海事労働条約の規定との整合性を図る必要があるために審議されたものである。
STCW条約は航海の安全を確保するために「任務への適合」として、当直者はどの24時間についても最低10時間の休息を与えられなければならないとしている。
一方海事労働条約は船員の労働環境の向上の観点から、全ての船員に対して、最低10時間以上の休息もしくは最長労働時間を14時間と定めている。
しかし規定の仕方に差異があるし、また海事労働条約は労使協議による例外規定を可能としている。
このため日本などは“労使の力関係が反映される団体交渉協約の結果次第で最短休息時間数に特例を認める提案は、航行安全確保のためのグローバルスタンダードに盛り込む規定として相応しくない”と指摘したが、EU加盟国及びノルウェーがILO 条約との整合性を図る必要性を強く主張したため、議論の結果、締約国会議において再度検討することになった。
IFSMAはもちろん日本と同じ立場であるが、労使協議のうえ、労働時間について緩和規定を有する船舶がPSC において、STCW条約違反に問われるケースも考えられる。
IMO とILO との整合性をどうとるか難しい問題がある。
また船長に対する海事労働条約の労働時間規制適用除外などの問題も絡んでくる。

5.船員配乗規制の見直し

現行の船員配乗規制について、“安全配乗原則の見直し”及び“新たな強制規則の策定”の2点から議論が行われたが、前者に関する議論については、日本の「最小配員数は諸々の要因を総合的に勘案して各主管庁が決定すべき」旨の主張が支持され、実質的に現状を維持する方向で最終化された。
後者に関する議論については、英国及びフランスより、安全配乗原則の国内法制化を明確に義務付けるべくSOLAS 条約を改正すべき旨が提案され、これが合意された。
しかし、EU を始とする先進国は配乗定員の強制化、特に内航船ないし沿岸航行船については必要と考えており、いずれ何らかの規制が加わるのではないかと思われる。

テムズ河左岸から見たIMO

2010:Year of the Seafarer

IMO は今年の「世界の海の日」のテーマとして“2010:Year of the Seafarer”を掲げ、その出航式をSTW 小委員会初日に行なった。
これには船員側のITF(国際運輸労連)と船主側のISF(国際海運連盟)が共催者として参加した。
挨拶に立ったIMO のミトロプーロス事務局長は2010年は船員にとって重要な年であり、幸先の良い年である、それは船員にとって最も重要なSTCW条約が15年ぶりに改正され、時代に即したものとなり6月に採択されるからであると述べた。
2010年を「船員の年」としたのは海運産業の最先端で働く船員の責任の重大さを、法制度を整備する当事者としてよく理解し、船員の仕事に敬意と共感を示すためであり、また世界の貿易を担い、今日の社会のライフラインを支える船員に対する尊敬の念を示すためでもあると挨拶した。
また、2008年の秋から始めた“Go to Sea”キャンペーンに一層の弾みをつけたいとも語った。
事務局長自身海上経験者でもあるが、彼のスピーチの一部をここで引用してみよう。
これは筆者が常日頃、若い人達に、特に学生に言いたいと思っていることである。
“It is my firm belief that, despite the numerical decline in officer-level entrants, shipping remains a potentially exciting, rewarding and fulfilling career ― a career that can take people almost anywhere, both in geographical terms and in terms of the sort of work they may finally find themselves doing. Seafaring is not only a satisfying and worthwhile career choice in itself, it is also a passport to a huge variety of related jobs ashore for which experience at sea will make one eminently qualified.”
IMOで審議される事案の殆どは、直接船長・航海士の業務に関連したものである。
IMOの会議に出席するか否かは別として、日本船長協会としてはIFSMA とも連携し、IMO の動向を注意深く見守る必要があるであろう。
会議では各国からさまざまな提案がなされており、その多くは必要な合意を得られず廃案となるが、改正条文とはならなくてもそれらの提案にいたる各国の事情や考え方は海上安全や環境の保護、船員のリクルートや教育・訓練に多いに参考となる。
IMO をフォローすることの重要性を改めて認識した今回の会議であった。
注) 小委員会の審議については、日本代表団の方々の報告書の一部を引用させて戴いた。
ここに記して、感謝とお断りをしておきたい。

Year of Seafaret 出航式で挨拶するISF会長

(文責 赤塚宏一)



LastUpDate: 2024-Mar-25