IFSMA便りNO.11

(社)日本船長協会事務局

船長はいずこにありや?

米国船長協会の機関誌“Sidelights”4月号に「船長はいずこにありや?」(Where is the Captain ?)という記事があった。
本誌第394号(平成21年12月・22年1月号)で紹介したCosco Busan号やドーヴァー海峡での衝突事故について考察し、あらためて船長の役割を論じている。
寄稿したのはCaptain Pete Boothで海軍とその後は海洋調査船の船長を長く務めた経験豊な船長である。
会員諸兄の参考になると思われるので、ここで今はやりの超訳を試みてみよう。
超訳とは直訳とも意訳とも違って、原著の意を汲み取って時には大胆な省略や言い換えも行ないながらより自然な日本語を目指すもの、との事である。
本来なら訳者の註とするものも本文に織り込んで、少しでも読みやすいものにしたいというのが、超訳を試みる所以である。
原文はhttp://www.mastermariner.org/sidelights/Sidelights_April2010.pdfにあるので興味のある方は参照していただきたい。
文中にComplacencyという単語が出てくるが、リーダーズ英和辞典&リーダーズ・プラスによると、満足、満悦;自己満足(危険・不足に気付かない);満足を与えるもの、と言った訳語がある。
この文では自己満足(危険・不足に気付かない)がもっとも適当な訳と思うが、あるいは希望的な思い込みと訳しても良いかもしれない。
要するに独りよがりの自己満足で、しばしば潜在的な危険や欠陥に気付かず、あるいは意識にあったとしても大事には至らないであろう、全てはうまくいくであろうとの希望的観測に基づく不作為といえようか。
日本語の訳語はまだ定着していないし、この概念そのものも比較的新しいので、今回はComplacencyとしてそのまま残すこととした。
またAccountabilityと言う単語も再々出てくる。
これは一般に説明責任として訳されているので、それを使ったが、ここで使われているAccountabilityは、単なる説明責任ではなく、どのような根拠に基づき判断し、どのような行動をとったのか、その結果がどうなったのか、発生した事故と犯した過失の関係について詳細な説明が求められていると考えるべきであろう。
以下がその超訳である。
Where is the Captain ? By Captain Pete Booth
Sidelightsの2009年の秋号は読み応えのある多くの記事があった。
なかでも“Maritime Executive”の編集長が書いたCosco Busan号によるサンフランシスコ湾橋との衝突とその事故のために長期の禁固刑を宣告されたパイロットの顛末、他の一つはドーヴァー海峡で衝突した両船の当直航海士のComplacencyについてである。
ここで二つの記事の筆者がいずれも触れていないのは、船長責任である。
Cosco Busan号の場合、この中国人の船長は全く人任せで、満載に近いコンテナ船が霧の中を出港するのに操船を病気を抱えた哀れなパイロットに任し切って、自分では航海の安全を確保するための何の手段も取らなかった。
また、ドーヴァー海峡での衝突事故では両船の船長はいずれも船橋に居なかった。
昨年、私はやや大部の海事図書“ Sea Buoy Outbound”を出版した。この本の中の2章を良く知られている商船や海軍の海難事故にあて、事故の概要やその写真、海難事
故報告書の抜粋にあてた。
この記事のタイトルである「船長はいずこにありや?」はこれらの章の前奏であり、多くの老練な船員が共感するフレーズである。
すなわち船舶運航に関わる者たちはよく理解しているように、船上において究極の責任を持つ者はその責任を十分に果たし、そして明確に説明責任をも果たさなければならない。
仮にも他の要因のせいにして、責任逃れをするようなことがあってはならない。
船長は文字通りその船のキャプテンであり、彼自身の怠慢、不作為または判断の過誤について責任を取らなければならない。

Cosco Busan号

長ったらしいNTSB(米国 国家運輸安全委員会)の報告書をインターネットで読んで、私はこの経験に富んだパイロットが勤務外の時間に取った多くの行動について哀しく思った。
事故の起きた当日の朝、深い霧の中でこのパイロットは多くの失敗を犯したがこれが衝突を引き起こすこととなった。
私の判断では、彼のいくつかの病状や与えられた多くの処方薬の服用、また彼がこれらの医療上の問題をコースト・ガードに十分説明していなかった事実を考慮すると彼は船長900フィートもある満載のコンテナ船を絶対に操船すべきではなかった。
彼は船橋に居るべきではなかったのだ。
彼はパイロットとして、商船学校出たての三等航海士でもしないような幾つかの過ちを犯した。
しかし、―どの三等航海士もよく知っているように―パイロットの資格証書がどのようなものであれ、パイロットは船長のアドバイザーに過ぎないのである。
Cosco Busan号の中国人船長は明らかに、全てを他人任せであった。船位をプロットするような指示も全く出さなかった、レーダ-も覗かなかった、ECDISのスクリーンもモニターしなかった。
そしてそれは三等航海士も同様であった。
これから導かれる結論は衝突の責任は100%、Cosco Busan号の船長にある、ということである。
船長は船橋で突っ立っていただけで、霧を見つめ、頭の中は全くの空白でパイロットに全面的に依存していたのである。
三等航海士や、パイロット(彼自身は全く混乱していたとしても)、航行管制官、あるい
は不測の潮流を責めるべきではない。
このNTSBの報告書を読んで改めて感心するのは、比較的容易なこの水先業務を行なうパイロットの能力について医療上や薬物の影響について詳細な説明がなされていることだろう。

ドーヴァー海峡の衝突

これは、2008年の10月にドーヴァー海峡でバルカーと小型の近海船が衝突した海難で、人身事故は無かったが、バルカーはバルバスバウを損傷し、小型船は外板に大きな損傷を受けた。
事故を調査した英国のMAIB(海難事故調査庁)によって、船員のComplacencyが事故の背景にあると指摘されたものである。
経験の深い船員はブイや灯標でよく整備された分離航行帯であるが、同時に横切り船の多いドーヴァー海峡を通航したことがあるであろう。
IFSMAの事務局長であるマクドナルド船長はこのドーヴァー海峡で起きる衝突の原因の多くは両船の当直士官のComplacencyにあると指摘している。
すなわちエジプトのバルカーが分離航路帯を北東に進路を取っている。
一方小型の沿海航行船はこの航路を多分針路60度で横切ろうとしている。
小型船は明らかにバルカーの進路を避けねばならない。
両船の船橋には当直士官一人しか居なかった。
夜間にもかかわらず見張りを置いていないのである。
衝突の寸前に一船の当直航海士がやっと他船に気がついた。
当直航海士の落ち度か?勿論イエス、である。
Complacencyか?そうであろう。
MAIBの報告書は次のように書いている。
「ComplacencyはMAIBが調査した海難事故で繰り返し見られる安全上の問題である。
船主はComplacencyによって引き起こされる危険を認識して、彼らの船舶が常に有なな
航海当直班によって運航されることを確保しなければならない」。
しかし、それだけでよいのだろうか、この記事を読んで私は当然の自問してみた。
何故両船の船長共は船橋に居なかったのか?
悪名高いExxon Valdez号の座礁は船長の針路変更指示を忘れてしまった三等航海士によって引き起こされたが、船長もさらに数分間船橋に止まり、針路変更を確認し、満載したタンカーが無事外洋に向うの待つべきであった。
私の船長としての常識は当然両船の船長は船橋にいるか、その近くで待機しているべきであった。
そこで私はこのように主張したい。
Complacencyが両船の船長を船舶輻輳する海域にもかかわらず自室で休息させ、結果的に事故を引き起こしたことになる。
従って両船の船長はこの事故に対する100%の責任があり、明確な説明義務を負うものである。
もちろんやる気がなく、シーマンシップのかけらも無いような当直航海士も責任を負わねばならない。

結 論

この短い記事は海難事故の報告でもなければ、海難裁決録の要約でもない。
もし、インターネット上のGoogleで“ship accidents”を検索すれば、0.27秒でたちどころに920万件の項目が現れる。
その内の幾つかは、もちろん不可抗力―神の御業―であろう。
しかし、航空機の事故現場と同様、あまりにも多くの事故が運航にかかわるトップのエラーか或いは単純で明白な基本的な義務が彼の業務明細書に記載されていなかったためある。
海事に関わる職業で、つまらない間違いを起こして、船長や陸上の上役をイライラさせたり、怒らした経験を持たない者は少ないだろう。
賢明な者は自分の、或いは他人の失敗から学ぶ。
こうした経験を経て自分が責任を持ち、あるいは権限をもつ地位に上るのである。
そして、人命の損失、重大な傷病、又は顕著な財物の喪失があった場合には、責任を持つ者は明白かつ詳細な説明責任が求められる。
そしてその説明責任は殆どの場合、一船の船長に帰するのである。
殆どの船員が慎重で、適任で、誇り高く、適格で責任感に溢れていても、上記のような
海難は数千回も海上の歴史の中で繰り返されている。
船員社会の中にあって、海難の原因に関する要因はいくらでも挙げることが出来るが、実際の船上にあって、それら要因の殆どを支配するのは船長である。
船長は全面的な権限を持つと同時に、船長は自分の行為や不注意に関して全面的な説明責任を伴うのである。
船員は運航に関わる規則と手続きを知っている。
しかし、これらの規則や手続きを安全
運航のために、或いは正当な運用のためにどのように、あるいはどの程度適用し、実行するのかを「船長命令簿」、彼自身の行動、または彼自身の日頃の言動を通して示すのが船長の役目である。
法律は存在する、施行規則を作るのは船長である。
もし、船長が過激であることを許容するか、あるいは中庸を好むのか、いずれにせよ船長はその結果を甘受しなければならない。
船長はその給与の99%を判断することによって得ている。
船長はチェックとバランスである。
船長が船橋にいなければならぬ時がある。
航海士一人で判断するよりも二人の方が良いのは言うまでもない。
不幸なことだが、非常に多くの場合、潜在的に危険な状況にあっても、鋭い見張りを怠るケースがどれほど多いことか。
それは当直航海士を信用しすぎなのである。
ここで責任感が強くプロフェッショナルな船長がなすべき幾つかの基本的な規則を挙げ
てみよう。
1.「船長命令簿」を通して運航に関する基本的な考え方を示す。
「これが私の本船の運航に対する原則だ。
手がいる時は早めに何時でも知らせよ」と言うべきである。
2.船長は常に部下が判断を仰ぐことが出来るような体制でなければならない。
特に注意深い航行が要求される、狭水道、悪天候下の出入港時、濃霧、パイロット乗
船時などである。
船長は決して船橋当直航海士達が信頼出来ないというような素振りは見せてはならない。
「…時には一つの頭脳より二つの頭脳の方が良いだろう」と言うべきである。
3.船長は船内において安全文化を確立するように努めなければならない。
安全ゴーグル、安全索、あるいは耳栓などの防具は確実に着用させねばならない。
大した事とでは無いかも知れないが、手抜きを見逃せばいつかはその代償を大きく払わねばならない。
4.船長は定期的に公式あるいは非公式に巡検をしなければならない。
そして安全でない慣行、火災防止の見張りを立てないで行なわれる溶接作業、可燃物の不適切な貯蔵、不完全な電気系統の安全対策、作動しない警報装置などを見逃してはならない。
そして定期的なギャレーの清掃などにも目を配らなければならない。
巡検にあたっては決め付けるような横柄な態度ではなく、着実でかつ一貫した方法でなされるべきである。
5.船長は常にプロの職業人として振舞わなければならない。
飲酒はするとしてもごく少量にして、定期的に船内を見回れ、天候 、また人間の弱さを理解しなければならない。
6.船長は船橋にあっては常に卓越した技量を部下に求めるべきである。油断のない見
張り、夜間航行への順応、VHFでの交信、責任ある操船、改正され最新の状態となっ
ている海図、清潔でよく整理された船橋、
等々である。
7.船長は自分自身が過労になって、その結果本船や乗組員の安全が脅かされるような事態を引き起こしてはならない。
毎日の昼寝は深夜の入港、午前2時の船舶輻輳する海域での航行、あるいは夜のもっとも不都合な時間の海中転落者の救助活動などに驚くような効果をもたらすだろう。
もし航海当直班が疲労困憊しているのであれば、そっと手助けをするだろう。
船長として、上に述べたような初歩的なことも出来ない者は、さっさと他の仕事を探すべきである。
机上の空論をはく専門家、米国運輸安全委員会、陸上にある偉い学者達は今流行のBridge Resource Managementなどではなく、もっと現場の船長の行動とその結果としての説明責任に焦点を当てるべきである。
海上を支配する法は数千年を経ても変わらず、Complacencyを決して許さないのである。

資料:“Sidelights”Fall 2009, April 2010,
「ヒューマンエラーは裁けるか」
東京大学出版会
(文責 赤塚宏一)



LastUpDate: 2024-Nov-19