第33回 岡山市立光南台中学校

作文/岡崎/新海/植田(美樹花)/野中/藤原/植田(麻香)/平松
 八馬汽船株式会社船長 伊丹 一郎

子供たちに海と船を語る講演風景

1.いきさつ

 8月7日(日)、乗船勤務を終え岡山に帰郷したところ、次男の通う中学校の2学年主任の先生から、職業講演実施の打診がありました。授業の一環である職場体験に先立つ催しとして「職業講演会」を企画しており、船乗りと言う職業柄故、私に白羽の矢が立ったようです。日頃から、世間では船乗りの認知度が低いことを感じていたので、実態を知ってもらうには良い機会と思い引き受けることにしました。もちろん講演など過去に経験はありません。息子の前で尻込みするところは見せられない、と言う事情もありました。

しかし、大勢の前で話す自信は無く、何か参考になる資料があればと思い、8月12日(金)、船長協会へ電話をかけてみました。担当の常務理事からは、『いっそのこと「船長、母校へ帰る」の企画でやってみてはどうですか。』と熱心に薦められ、事が大きくなって大変とは思いつつも承諾した次第です。講演時間は1時間半ですが、「船長、母校へ帰る」の企画によると、船長協会会長のお話、ビデオの上映等があり、私の拙い話を補ってもらえ、話す時間も短縮出来るという利点もありました。それからは船長協会とE-mail
を中心にやり取りして準備を始めました。学年主任の先生にも「船長、母校へ帰る」の企画について、説明し同意が得られました。

学校からの講演依頼書には、講演内容として以下のことが例示されていました。

  • 仕事の内容
  • 仕事に対する信念
  • 何故この職業を選んだのか
  • 忘れられない体験や人との出会い
  • 中学生に伝えたいメッセージ

2.講演準備

 これらを踏まえ、船長協会ホームページ、事前に届いた船長協会・船主協会等の資料を参考に講演の草稿を作り、声に出して練習してみましたが、棒読みになってしまい上手くいきません。家人からは、「上手くやろうと思わんでもいいんじゃないの。」と慰めの言葉をもらい、それもそうかと納得しました。草稿は、読まずに覚書と心得、自分の言葉で話すことにしました。

講演の前日、9月5日(月)午後から打合せの予定でした。しかし接近していた台風14号を心配して、朝、学年主任の先生から電話があり、翌日6日(火)の講演は学校が休みになる可能性が高いので、8日(木)に変更した方が良いのではないかという事でした。

 早速、担当常務理事に事情を説明したところ、とりあえず予定通り6日の講演を前提として、本日5日の打合せを行い、翌日、学校が休みになった場合の事も含めて先生方と相談する事にしました。

午後、岡山駅に森本船長協会会長と担当の原田常務理事を迎え、光南台中学校へ向いました。14時頃から、校長先生、学年主任の先生等と講演の打合せを行いました。接近中の台風について、翌日朝7時の段階で暴風警報が出ていれば、学校は自動的に休みになり、登校後でも暴風警報が出た時点で下校する事、6日の講演が出来ない時は、8日の午後に延期する事を確認しました。その後、会場となる体育館で先生方にお手伝いをしていただき、DVD
プレーヤーなどの機材の試験等を行い、打合せを終了しました。

その日は、家に帰ってからもう一度草稿を手直しました。


3.講演当日

  明けて、9月6日(火)、朝7時の天気予報では、注意報は出ていたものの暴風警報には至っておらず、何とか講演会は開けそうでした。講演・天候共に不安はあるものの、船に乗っていて台風に遭うことからすれば大した事無いか、と自分に言い聞かせ、夏の制服を着込んで制帽、草稿を脇に抱えて、8時過ぎに学校に到着、校長室で出番を待ちました。8時40分頃、校長先生と共に体育館に出向き、予定通り8時50分頃、2年生2クラス、56名の生徒達が入場してきました。

生徒達の司会により、次の式次第で1時間半の講演会を行いました。

  • 校長先生の挨拶
  • 森本会長の挨拶
  • ビデオ上映
  • 講演
  • 質問

 生徒達は、礼儀正しく、司会役の3人の生徒達は、自分と同じようにやや緊張気味で、微笑ましく思いました。

 客船「飛鳥」の制服姿で挨拶された船長協会会長は、「海」と言う言葉に「母」が在ると言う事を、フランス語も例に流暢に話され、流石に場慣れしておられると感心しました。

ビデオの後、私の講演となり、船の仕事、船乗りになった経過、初めて乗った船、想い出に残った事等を話し、話題に詰まると草稿に目を落としまた続けると言う状況でした。

(講演内容)

1. 自己紹介・仕事の内容

 皆さん、おはようございます。先程の紹介にありました、伊丹です。今から36年前、昭和44年にこの光南台中学校を卒業しました。今日は、私の職業について話をさせていただきます。私は、外国航路の船の船長をしています。

先程のビデオで見たように船にも色々ありますが。私達の乗る船を「商船」といいます。〈商船〉とはどんな船を言うのでしょうか? 簡単に言うと、荷物を運んで運賃を貰うことを仕事にしている船です。皆さんは、船というとどんな船を想像しますか?
漁船を思い浮かべる人が一番多いのではないでしょうか。なぜなら、私が船に乗っていると言うと、
① 『毎日、新鮮な魚が食べられていいですね』と、よく言われるからです。

でも、商船で食べる魚介類はほぼ全てが冷凍物です。なぜなら、乗っている人(20-30人)が次の港や日本に帰ってくるまで1-2ヶ月間食べられるだけの魚を釣ったり、捕ったりする時間や道具も無く、船そのものが漁船のようには出来ていません。また、魚を捕るトローリング漁船は漁をするとき12ノット以下のスピードで走りますが、商船はもっと速いスピードで走ります。

ここで、12ノットと言いましたが、船の速力はノットと言う単位を使います。1ノットは、時速1.852キロメートルです。ノットをキロメートルに換算するには、2倍して、1割引いて下さい。12×2=24
24-2=22 12ノットは、時速約22キロと言うことです。

② 『船に乗っている割りには、日に焼けていませんね』とよく言われます。

船長の仕事は実際に現場で行うより、殆ど屋内(船橋や無線室)で監督したり指示を出したりでするので、仕事中はあまり外には出ません。

③ 『夜、船は、止まっているんですか』と言われることもありますが、一旦港を出ると、目的地に着くまで昼夜走り続けています。

④ 『国によって時差がありますが、船は日本を出てからどうするんですか』

 船では、「仕向地」(目的の港)に入港するまでに、現地時間に合わせる為、時刻改正をします。私の会社の船では、夜9時(21時)に時刻改正をします。

例えば、日本(9hE)から米国西岸(7hW)ロサンジェルスへ東に向かって行く場合、同じ時間を使っていると夜が明けるのが早くなります。これを合わせるために船の時間を進めなければなりません。現地に着くまでに時差である8時間の時刻改正をする訳ですが、航海日数は11昼夜位ですから、平均するとほぼ毎日時計を45分ほど進めます。
もう一つ大事なことは日付変更線を越える事です。岡山の経度は東経約134度です。アメリカへ向かうと134度から140度、150度と数字が大きくなっていきます。そして、経度が180度になると日付変更線です。以後は西経179度と徐々に減って行きます。日付変更線を超えると、日付はどうなるのでしょう?
東へ向かう場合、経度180度付近で同じ日付が、繰り返されます。例えば、皆さんが東に向かう船に乗っているとして、今日の午後に日付変更線を越えると、明日も6日ということです。逆に、アメリカから日本へ向かう西向けの場合は時計を遅らせ、日付変更線付近では日付が1日消滅します。例えば、今日の午後に日付変更線を越えると、7日は消滅して明日は8日になります。

<船長の仕事> それでは、航海中はどんな仕事をしているのかと言うと、

①船の総監督=船の中で毎日行われる作業が安全で効率よく行われるように監視する。

甲板部 (船体や貨物の仕事)
;一等航海士が現場責任者
    機関部 (エンジンの仕事)
;機関長・一等機関士
    無線部 (無線・通信、書類の仕事)
;通信長
    司厨部 (食事を作ったり、船内の衛生関係の仕事)
;司厨長
②入港手続き=入港に必要な書類を用意する

外国の港(アメリカ)では、空港の入国管理・税関検査と同じ手続きがあります。・全乗組員の顔見せ・パスポートチェック・簡単な質問;第一声は、“Good
morning. How are you?”職種、何時乗船したか、船員になって何年か、前回アメリカに来たのは何時か、など



③港では、貨物やその他品物(燃料、日用品、機械の部品、ペンキなど)の積み降ろしが安全に行われる様に監視します。それら作業の終了時間を予想して、出港時間を決めます。



④天気図・予報図を調べて、嵐に合わないよう船の針路を決め、帰りの航海計画を立てます。入港日、距離(最短コース)、海流、浅瀬や島の近くを通る時はどれ位離すかなどにも注意して決めます。距離の単位は海里(カイリ)マイルで海では1マイルが1852m(緯度1分の長さ)と決められています。因みに陸上で、1マイルは1609mです。

<北米西岸から日本までのルートの説明>

⑤港への出入りや島の間など狭いところ(狭水道)は、船長が操船(船を操縦)し、太平洋や陸地から離れた広いところでは、航海士が代理で操船します。

港では、パイロットという港への出入専門に行う人がいて、船長の手助けをしてくれます。

2. 職業として船乗りを選んだ理由

何故、職業として外国航路の船乗りになったかというと、「小学生の頃から、遠くへ行ってみたいと思っていた」からです。その頃一番遠いところというと、船で京橋まで行くか、バスで宇野港まで行くくらいでしたから外国へ行くというのは、本当に夢の世界でした。

 商船学校の卒業航海は、外国へ行けると聞いていたことも理由のひとつです。
小学校の卒業文集に将来、外国航路の船長になるとも書きました。その思いは、中学生になっても同じでした。

3. 夢を実現させる為にどうしたか

船に乗る為には、どうしたらいいのか、と言うと、船の学校へ行って勉強することです。ですから、中学を卒業する時に、広島にある商船高専を受験しようと思い、両親に相談しました。しかし、この時には反対されました。両親としては、突然のことでビックリしたんでしょうか。まだ中学生でしたから、親に反対されたら強くは言い返せませんでした。

 それに、普通科の高校へ行けば選択肢が広がりますから、『高校の三年間で道を探せばいいか』と思った訳です。

そして、高校の三年間でもやはり、船乗りになりたいという思いは変わらず、大学は商船大学を志望校としました。しかし、高校三年になって進路指導の際、先生からは『別の大学を受けたらどうか』と言われました。先生は、それまでの統計から、私の成績では商船大学は無理だと判断されたのです。皆さんならどうしますか?

近い将来、高校受験若しくは就職の選択で同じような経験をする人もいるでしょう。

私の選んだ道は、浪人覚悟で受験するこ

とでした。それから受験までの数ヶ月は、今までサボっていた苦手な科目を中心に勉強しました。その甲斐あってか、神戸商船大学に合格することが出来、今、船長という職業についています。

若し船乗りを諦めて別の大学を受けていたら、一生後悔していたと思います。『自分で選んだ道』というところが、大事です。今迄、船乗り生活で何度も壁にぶつかりましたが、『自分で選んだ道』だからと踏ん張って、乗り越えることができました。

 皆さんも、自分の得意な分野、やっていて楽しいこと、難しいけど好きな事等が判る年だと思います。皆さんの将来を決めるのは、皆さん自身です。

(質問)

生徒からは、「灯浮標」灯質の違いやどうしたら船に乗れるのか等、配布資料に目を通していたらしく、かなり突っ込んだ質問がありました。

4.講演を終わって

 何とか予定通り10時20分頃講演を終わり、後片付けをして、台風に追われるように会長と担当理事を岡山駅にお送りしたのですが、駅の電光掲示板では、博多広島間の新幹線は運転を休止中と掲示してありました。お二人を見送った1~2時間後には、岡山も暴風警報が発令され、正に滑り込みセーフと言う感じでした。

帰宅した次男に感想を聞いてみたところ、話の内容は良く覚えていないと厳しいものでした。もう少し印象に残る、夢のある話し方が出来ていればと反省した次第です。救いといえば、制服はかっこよかったと評判になったことでしょうか。

最後に、船と海について講演の機会を与えてくださった、佐川校長先生、岡崎学年主任をはじめ、会場の準備などでお世話になった先生方には直接お礼の言葉を伝えられず、失礼しました。森本会長、原田船長には、お忙しい中、事前の準備やこちらに合わせてのスケジュール調整、台風の中の出張と深謝致します。

生徒達には、NEET(ニート)などと言う言葉に惑わされないよう、しっかりした職業観を育てて欲しいと思います。

懇談会のお礼と資料の送付について    


先日は、悪天候の中、実りある講演会をいただきました。生徒は講演会を通して、新しく興味深い世界を知ることができたようです。くわしい資料や細やかなお心遣いもいただき、誠にありがとうございました。職員・生徒共々感謝申し上げます。

さて、感想文(全員ではない)とテープを同封させていただきました。先日の資料送付の領収書を紛失してしまいました。大変申し訳ありません。何かと不行き届きや失礼がありましたこと、どうぞお許しください。今後の皆様のますますのご活躍をお祈り申し上げます。

    岡山市港南台中学校

2学年主任 岡崎 順子

作文/岡崎/新海/植田(美樹花)/野中/藤原/植田(麻香)/平松

LastUpDate: 2024-Apr-17