IFSMA便りNO.17

(社)日本船長協会事務局

タンパへの遠い道

悲運のスコット南極探検隊の記録「世界最悪の旅 The worst journey in the world Antarctic」のような旅というのはもちろん大げさだが、マーフィーの法則そのままのような旅であった。
4月にフロリダのタンパで行われたIFSMA理事会に出席した時のことである。
もともとこの理事会は6月にカナダのハリファックスで開催される総会に備える準備会合の色彩が強く、取り立てて新しい問題もないので欠席するつもりでいた。
しかし東日本大震災を受けて海運界でも原発事故に関連し、国際的な風評被害が発生し、日本への寄港取りやめ、外国人船員の日本関係船舶への乗船拒否、さらには外国の港において日本から来た船の入港拒否などが世界的に起こっているので、可能な限り正確な日本の状況を説明する必要を感じたため出席することとした。
最初の躓きは東京駅から成田エクスプレスが昼間は運転取りやめとなっていた。
ゆっくりと時間をかけ成田空港についた。
チェックインして搭乗すると座席は通路側を予約したはずだが、両側を大きなアメリカ人に挟まれて座ることとなった。
80㎝四方の空間に12時間閉じ込められるのは楽ではない。
しかしこれに文句言うことは出来ない。
なにしろそれだけの運賃しか払っていないのだから。
飛行機は予定より少し遅れてテキサスのダラスについた。
ここで乗り換えタンパに向かうことになっている。
入国手続きはアメリカにしては比較的スムースだった。
しかし乗り換えのためのセキュリティチェックは厳重である。
上着を取って、ベルトを取って、靴を脱いで、そのうえ全身スキャンを行う。
これに引っかかった。
何が原因だかわからないが、アフリカ系米国人の大男の検査官がボディ・チェックをするがなんならプライヴェート・ルームでしても良いという。
しかしこんな大男と個室で向かい合うのはいかにも剣呑なので、この場でよいと答えた。
そして衆人環視のうちに徹底的なボディ・チェックが行われた。
どうもズボンのサスペンダーの金具が原因らしいが、はっきりしないまま放免となった。

そして広いダラスの空港内をエヤ・ポート・アンバサダーを名乗るボランティアのおばあさんの手をかりて、やっとタンパ行のゲートにたどり着いた。
チェックインを済ませ、ホッと一息を入れてから、掲示板を見ると遅延と出ている。
まあいいかとお茶を飲みに行き、そして帰って掲示板を見ると今度はキャンセルと出ている。
あわててカウンターに行くと長い行列が出来ている。
それに並んで何とか振替便にチェックインした。
また広い空港を移動する。
手荷物はもちろんチェックインしてあるが、パソコンの入った鞄は結構重い。
そして次のゲートまたまた同じことが起きた。
原因はアメリカ南部を襲った竜巻と異常気象で、それにともない到着機材がないのだという。
それでも何とか夜の11時過ぎの便が予約できた。
これに乗ればタンパには真夜中過ぎになる。
とにかく明日の朝までにつけばよいので、とりあえずタンパのホテルに電話をして夜中の1時か2時には着けるから部屋を確保してくれるように依頼した。
長期戦を覚悟して、ハンバーガーで夕食をすませ、ひたすら待った。
そして10時過ぎ、掲示板は無情にもこの便もキャンセルと表示された。
カウンターには怒り心頭に発した乗客の列が続く。
スペイン人の老夫婦が何かわめいている。
やっと順番が来て、カウンターの後ろを見るとアメリカン航空は東日本大震災の被災者にお見舞い申し上げるとともに義捐金を募集すると表示されている(写真)。
文句の一つや二つ言いたいのをぐっと我慢して、とにかく会議があるから明日朝一番の便を予約するようにというとすでに満席で、早いのでも昼一番だという。
それでは会議に間に合わない、こちらはすでに3回もキャンセルになっていると強固にいうとそれではとビジネス・クラスの席を用意してくれた。
もちろん料金はそのままである。
次に今夜の宿はどうなるかと聞いた。
空港の待合室にはコッド(簡易ベッド)が用意してあるから、それを使ってくれという。
そこでまたネゴシエーションである。
こちらは成田を発ってすでに20数時間、殆ど寝てないし、狭心症の持病もあれば、エコノミック症候群発症の可能性だってある、何か起きれば空港も航空会社も困るだろう、こんな所で野宿するわけにはいかないと努めて冷静に言った。
結局航空会社が空港近くのモーテルを予約し、そこまでのトランスポートを手配することとなった。
そして案内を兼ねてついでにバスの乗り場まで車いすを手配するという。
狭心症を強調しすぎたのかもしれない。待つほどなくこれまたアフリカ系の大男が車いすを持ってやってきた。
乗せてもらおうかと思ったが、さすがに気が引けるので、私の狭心症には適度の運動も必要だとか何とか言って、パソコンの入った鞄を車いすに乗せてもらいバス停まで送ってもらった。
紹介された空港近くの小さなモーテルはすでに飛行機に乗れなかった旅行者で一杯でロビーに入りきらず玄関の外まで並んでいた。
辛抱強く並んで部屋にたどり着いたのは午前1時近い。
上着とるのももどかしくベッドに横になり30数時間ぶりに身体を伸ばした。
4時間ほど眠り5時起床、空港へ駆けつける。またまたボディ・チェックを経てやっと座席に身を落ち着ける。
そしてスケジュール通りに離陸、やれやれとの思いである。
機は上昇し巡航高度に達し水平飛行となった。
これから朝食でも出てくるかと思った矢先、機は急降下を始めた。
それと共にLost Pressureとの機長のアナウンスがある。
そして酸素マスクが天井から下りてきた。
これまで多分、数百回飛行機に乗ったと思うが、初めての経験である。
マスクの装着などバタバタしていたが、やっと落ち着いた頃、両耳の奥が何かで突かれたような鋭い痛みを覚えた。
この痛みはしばらく続いたが、それはなんとも耐え難い痛みである。
急激な気圧の変化に順応できなかったのであろう。
その昔、エア・パイロットを志したこともあったが、ならなくてよかった、正確にはなれなくてよかったというところか。
機はまたダラスに引き返し、昼過ぎの便をつかまえた。
そしてタンパに着いたらすでに3時過ぎである。
それにしても成田でチェックインしたスーツケースが奇跡的にも届いていたのには胸を撫でおろした。
成田を出てからタンパに着くまで正味37時間である。
空港から直ちに理事会の行われているホテルへ駆けつける。
理事会のメンバーは一斉に立ち上がり歓迎してくれたが、もう議事はほとんど終わりである。
それでも時間を延長して親切に会議の復習をしてくれた。
そして東日本大震災と福島原発に関する報告に耳を傾けてくれた。
そしてひとまず会議を打ち切り、あらためてホテルにチェックインすべくレセプションに行った。
美人の受付嬢は「まことに残念ながら貴方の部屋はキャンセルされました」。
今朝まで待ったけれど連絡がなく、復活節の休暇の真っ最中で全ての部屋は埋まっているとの事であった。
またまたネゴの結果なんとかそのホテル・グループのワン・ランク下のホテルならぬインに潜り込めたが、いやはや長い苦難の旅であった。

「理事会」

議題は例によって多岐にわたる。
海賊問題と武装ガードの乗船、船員の犯罪者扱い、それを保護するための保険の設立、船員の労働時間と疲労問題、救命艇のフックの問題、閉鎖区画での作業の安全性、東日本大震災と原発事故による船舶及び船員の安全性、またIFSMA運営の問題として、IFSMAの今後のありかた、とりわけ専任事務局長の雇用問題、それに伴う会費値上げの是非、新しい会員の獲得、IMO会議への対応方法、ニュース・レターの編集方針、などなど盛り沢山である。
今回は総会前の理事会であるため、これらの問題点を整理するのが目的であった。
このため東日本大震災と原発事故については日本船長協会が6月カナダでの総会にてあらためて状況を説明することとした。
どこにコンタクトすれば、あるいはどのWebsiteにアクセスすればもっとも信頼がおける情報を得ることが出来るのか、震災及び津波にともなう洋上漂流物の情報はどこから得ることが出来るのかに関心があるようだった。
これについては総会提出資料をすでに作成しているが、次回の月報に総会における審議状況とともに報告する予定である。
海賊対策の為に武装ガードを乗船させるか否かの問題については、IFSMAは昨年のマニラにおける総会にて乗組員の武装化とともに反対を決議しているが、ソマリ沖の海賊被害は拡大し、狂暴化しそしてその範囲も広くインド洋を覆っている。
一方商船のシタデル化(船内の一部の要塞化)や一部の商船ですでに用いられている私設の武装ガードがそれなりに有効なところから、IFSMAの方針を見直すことが提案されている。
各国ではすでにこの問題についていろいろ検討されている。
ノルウェーの戦争保険委員会はガイダンスを出しており、多くの問題点を指摘している。
国際的船主4団体(ICS、ISF、INERTANKO、INTERCARGO)では、この問題について方針を変え武装ガードを「容認する」との意向を表明している。
またIMOの先の海上安全委員会でも武装ガード乗船のためのガイドラインが審議された。
これについては総会で改めて審議し、加盟船長協会の意向を踏まえ態度を決定することとした。
IFSMAとしてはおそらく「武装化には反対である」との表明を取り下げることのみで対応することとなるであろうが、積極的に武装化を支持することはないと思われるし、日本船長協会としてもその方向で対応するつもりである。

「米国船長協会タンパ支部」

今回の理事会は米国船長協会タンパ支部(これをChapterと言っているが、主として米国での表現のようだ)に属するIFSMA副会長のCapt Jerome Benyoの招待によるものである。
このタンパ支部には46名の会員がいて支部長はCapt David Williamsである。
フロリダは米国のもっとも有名な保養地、そして退職者・高齢者のコミュニティのある所なので、会員たちも大半が引退した船長であるが、タンパはご存じのとおり米国有数の港湾都市でもあるので、港湾関係で現役の船長も多いとの事であった。
タンパ支部は夏季を除いて毎月第二火曜日にタンパの由緒あるColumbia Restaurantで昼食会を行っているそうだ。
この支部は親睦会の色彩が濃かったが、Capt BenyoがIFSMAの役員に就任してから船長や船員に関わる話題が多くなったという。
IFSMAの理事会の翌日はタンパ支部の定例の昼食会であり、IFSMAの役員一同も招待され、会員との交流をもつこととなった。
昼食後会員の一人である老船長から、船長時代には何度も日本の港を訪れた。
それは素晴らしい思い出である。
今その日本の人たちが震災とその後遺症で苦しんでいるのを見るのはつらい。
1日も早い復興と元気を取り戻すことを祈っていると、両手で筆者の手を取って慰めてくれたのには嬉しかった。


篠村 義夫氏

国際海事機関(IMO)の元事務局次長の篠村義夫氏が逝去された。享年84歳。
告別式が、5月30日東京の目白聖公会にて行われた。
篠村氏は、東京大学卒業後、15年間の日本海事協会勤務を経て1964年に事務局員としてIMOでの勤務を開始。
6年後IMO海上科学技術部長、それに続き初の海上環境部長、海上安全部長を歴任し、私がロンドンに赴任した1987年事務次長となられた。
IMO退職後は日本船舶技術研究協会の技術顧問に就任し、2008年までIMOの日本代表団員として尽力された。
1966年の満載喫水線条約、1969年のトン数条約、1974年の海上人命安全条約(SOLAS条約)の創設に大きく寄与し、また特に、1973年の海洋汚染防止条約及び同条約に関する1978年の議定書(MARPOL73/78)は、篠村氏の業績として語り継がれるであろうが、そのほかSTCW条約の95年の大改正、HNS条約、その他数えきれないほどの条約や規則、コード、ガイドラインの創設や改正に貢献された。
IMO在職中は動くコンピュータ、歩く百科事典などと称され、また日本代表団のリーダーとなってからは、IMOの審議をリードするいわゆるIMOマフィアの有力メンバー、いやドンとして活躍された。
英国代表ですらも一目も二目置くその卓越し英語力、まさしくブリタニカのような知識及び記憶、スパコン並みの頭の回転、おやじギャグも交えた英語のかずかずのジョークは忘れられない。
私がIMOで最初に実質的な審議に参加したのは1987年の設計設備小委員会でパイロット・ラダーの性能要件の見直しであった。
そのために設立されたWGのメンバーは議長の英国ミルフォードヘイブンのチーフ・パイロットの他、全てパイロットや船長出身者で、WGの雰囲気は海の仲間として和気藹々、楽しい作業であった。
3日の作業を終えて性能要件案を含む報告書を書き上げ、これが承認されたら裏のパブで乾杯することとなっていた。
審議が始まると事務局を代表して小委員会委員長の横に座っていた篠村氏がその報告書を手に取るや否や、英語のテニオハから始まって報告書の形式、内容、本体の条約との関連、他の規定との食い違いなど、立て板に水を流す如く問題点を指摘し、あっという間に敢え無くも報告書は却下されてしまった。
WGの議長は顔面蒼白、私達WGのメンバーも顔も上げられない。
大変な所でこれから仕事をしなければならないのかと最初は内心恐ろしかったことを昨日のように覚えている。
篠村氏は幅広い趣味人で奥様とともにクラシック音楽を愛し、映画を愛し、美食を愛しそしてゴルフを愛した篠村氏、私のロンドン時代の思い出は全て篠村氏と共にある。
今は静かに篠村氏のご冥福を祈るばかりである。

(赤塚記)


LastUpDate: 2018-Sep-18