(社)日本船長協会 会長 森本靖之
かく濡れて遺族らと祈る 更にさらにひたぬれて 君ら逝き給ひしか
昭和46年5月、観音崎に建立された「戦没船員の碑」の除幕式が、皇太子殿下・美智子妃殿下ご臨席の下に厳かに執り行われた。当日はあいにくの大雨であったが、一心に合掌する大勢の遺族たちの姿に深く心を打たれた妃殿下が詠まれたお歌である。祖国のため武器なき商船とともに水漬く屍となった6万余の御霊に対する誠に感銘深い鎮魂歌である。
「安らかにねむれ わが友よ 波静かなれ とこしえに」と刻まれた横長の石碑の向うに、房総を遠望し浦賀水道が眼下に広がるこの慰霊の地を、まだご存知ない方にはぜひ一度訪問されることをお勧めしたい。
あれから60年、海運界にもいろいろなことがあった。戦後日本の復興に貢献しつつ海運も復活を遂げ、最盛期には外航船1600隻弱と外航船員5万7千人を擁する世界有数の海運国となった。
やがて迎えた円高と国際競争、長期スト、船員制度の近代化、混乗化、船員の緊急雇用対策、日本商船隊の便宜置籍船化などなど。
そして今、船員は3,000人を切り、日の丸を揚げる外航船も遂に90隻近くになってしまった。これでは船舶運航技術の伝承に必要な最小規模すら危うい状態である。日本国民の生活を支える年間10億トンの海上物流のすべてを日本人船員の手でとは、激しい国際競争や少子化時代を迎え、それはまったく非現実的な話であり、国際分業は必然のものと捉えなければならない。しかし、今日の状態は分業ではなく移転とか移管と言うべき域に来ているのではないだろうか。
一昨年7月、戦後60年の節目に当たり、戦没船員遺族の慰労会が海運クラブで開かれた。ご臨席戴いた天皇・皇后両陛下も全国から参集した船名別に集う遺族たちの輪の中に入られ1時間もご歓談された。
会場でたまたまお会いできた当時の北側国土交通大臣に私は思わず言ってしまった。「大臣ご心配なく。今戦争があっても戦没船員は3,000人しか出ませんから」と。大臣もなんと答えてよいか困られた様子で苦笑されていた。
昨年は、このような実態に危惧の念を抱く新聞や有識者、政治家の中から、この状況で日本の生命線が確保できるのかと問題提起する意見が多く出された。
この問題については本号で特集を組んでおり、私の私見も開陳させて頂きました。本特集を是非ご一読ください。
さて、皆様、あらためまして、あけましておめでとうございます。
今年は良き年となるような予感と期待を抱きながら平成19年の正月を迎えました。洋上では正月飾りもおせち料理も出てこないようなFOC船で元旦を迎えられた会員もおられるでしょう。それでも本船の安航と家族の無事を祈り新年を迎えて気持ちを新たにされたことと思います。
正月休みも終わり、仕事が平常に戻った1月9日、昼のニュースで大型タンカーがホルムズ海峡で米軍の原子力潜水艦と接触というびっくりするようなニュースが飛び込んできました。さっそくNHKテレビも取材にやって来ました。
同海峡が国際海峡であり、真夜中に潜水艦が海峡を通過することが特に問題であるとは申しません。潜水艦は水中にある船体の大きさに比べ、掲示している航海灯の規模が小さく、他船からは小型船にしか見えないという大きな危険性が潜んでいるのです。漁船のように潜水艦であることが識別できるような夜間標識灯が欲しいところです。もちろん戦時の軍事行動中は消燈するでしょう。
本事故でどちらに避航義務があったのかなど、両船の関係が不明ではなんともコメントのしようがないなと思っていたら、なんと潜水艦は潜航中であったと情報が入って来ました。
同海峡は、水深もあり、通行分離帯も設定され、漁船やドバイ・イラン間を行き来するダウ船など小型船の動静を見張りながら、船長は湾曲する航路に沿って注意深く操船しなければならないが、海賊の恐れと浅瀬が点在するマラッカ海峡を通過するときほどの緊張は強いられません。
まさか、海峡航行中の本船の下に潜水艦がコバンザメのようについてきているとは、平時である現在、いかなる船長も想像だにしないことであります。潜水艦側に軍事上の如何なる理由があったのかは知らないが、今回の事故は100%潜水艦側に原因があったと言えましょう。
事故による死傷者が出なかったこと、放射能も油も漏れなかったこと、日本籍船であったため事故発生後の日米間の対応をスムースに運ばせ、運航船社も顔が見えるマスコミ対応が出来たことなど、大惨事に至らなかったことは本当に良かったと思います。
それでは、会員の皆様、今年が良い年になりますように、希望を持ってがんばりましょう。ご安航とご健勝をお祈りします。