IFSMAの役員に船長最後離船の義務について照会したことは本誌前号に書いた。
その後IFSMA会長のリンドヴァル船長からスウェーデンのウプサラ大学の教員が今年の4月10日に発表したばかりの論文が送られてきた。
その題名は
『“Every man for himself” Gender, Norms and Survival in Maritime Disasters 』で、著者はMikael Elinder and Oscar Erixsonである。
この“Every man for himself”という言葉はタイタニック号のスミス船長が“Women and children first”(WCF)「女性と子供を優先せよ」と救命艇を送り出した後、“Now it’s every man for himself”「今から各自自由行動」と云ったと伝えられているが(本誌第408号「船長のための「海の英語」研究(48)河内 満」)、この言葉は英語では良く使われるフレーズで自分の身は自分で守らなければならない状態を表し、“Every man for himself and the devil take the hindmost”「みんな自分で自分を守れ、悪魔は一番後ろの人を捕まえる」といったことわざもある。
また「われ先に逃げろ」とのニュアンスもある。
これは今回の東日本大震災と津波に関して言われた「命てんでこ」ということになろうか。
まずはこの論文のAbstractを紹介してみよう。
『タイタニック号の沈没以来、海上での行動基準「女性と子供を優先せよ!」が海難事故に際して女性の生存率を男性より高くすること、そして船長と乗組員は乗客に優先権を与えると広く信じられている。
我々はこれを検証するために3 世紀にわたる18件の海難事故のデータベースの分析を通して30ヶ国に及ぶ15,000人以上の個人の運命をたどることとした。
我々の分析の結果は海難事故についての新たな実態を示している。
女性は明らかに男性に比べて生存率が低い。
船長と乗組員の生存率は乗客に比べて著しく高い。
我々は船長が乗客及び乗組員に対して適切な行動を取るよう強要できる権限を持つこと、性別による生存率のギャップは減りつつあること、英国船の海難事故では女性が大変不利なこと、そして事故が発生して最終的に沈没するまでの時間と海上での行動基準のインパクトとは相互に関係のないように見えることなどを明らかにした。
これらの分析結果を通して、生きるか死ぬかという状況における人間の行動は‘Every man for himself’―命は各自―という表現で表すことが出来る。』
Abstractにあるようにこの論文は“Women and children first”(WCF)「女性と子供を優先せよ」という海上の行動基準あるいは社会規範(NORMS)が男女の生存率や船長及び乗組員の生存率に影響を与えているのかどうかを考察したものである。
タイタニック号の遭難とその乗客の救助があまりに劇的であったがために、タイタニック号で起きたことがどの海難事故にも当てはまると世間では見られている。
タイタニック号では女性及び子供が優先的にボートに乗り、その結果男性の生存率20%に対し、3 倍以上の70%の生存率となった。
船長と乗組員の75%は船と共に運命を共にし、“Women and children first”(WCF)は“書かれざる海の法律”と目された。
この論文では女性は本当に海難に於いて生存率が高いのだろうか、タイタニック号が例外なのだろうか、事故の状況及び乗組員及び乗客の文化的な背景が誰が生き残り、誰が命を落とすのかを決めることがあるのだろうか。
そして我々にとって最も関心の深い“船長はどのような役割を果たすのだろうか?”
この論文は単なる海難の場での考察ではなく、生死に関わる状況において人間がどのように行動するのかを広く考察したもので、海難は極めて状況が限定されており、また生存率や当事者の証言なども得られやすい所から、恰好のケース・スタディに選ばれたともいえる。
このデータの分析にあたり、論文の著者は六つの仮説を検証している。
1 .女性は海難事故において助かる確率は高いのか
2 .乗組員は海難事故に於いて助かる確率は低いのか
3 .“Women and children first”が船長により命令された時、女性は対応出来るのか
4 .第一次世界大戦以後、男女の生存率の差は狭まったのか
5 .英国船の場合、女性の助かる確率は男性に比べて大きな差があるのか
6 .生存率の男女差は船が30分以内に沈没した場合、沈没までに30分以上掛かった場合と比べて少ないのか
これらの仮説は「Figure 1.」に見られるようにタイタニック号の生存率のデータと他の海難の生存率であるMSデータが大きく異なることから、改めて海難一般について検証する必要性を感じたからである。
ここでMSとはmain sampleの略で18件のデータのうち、タイタニック号とルシタニア号(英国の客船で第一次世界大戦中雷撃により沈没)のデータを除いた16件のデータをいう。
ルシタニア号の海難事故は多くの点でタイタニック号と似たところがあるからである。
取り上げられた海難は別表の通りである。
どの海難を取り上げるのかは、極めて難しい問題であるが、著者らは次の四つの基準を設けた。
(1)平時の海難であること(但しルシタニア号はドイツの潜水艦の雷撃による沈没であるが、先行分析があるので、それと対比するために加えたものである。)
(2)旅客船の海難であること
(3)相当数の生存者がいること
(4)男女別の生存率がデータとして残されていること
ここで指摘しておかねばならないのは、こうした海難事故の乗客名簿を得ることは非常に困難なことである。
特に新興国のデータは言語の障壁もあって殆ど取得も分析も不可能である。
その例がフィリッピンで1987年に遭難したMV Dona Pasとセネガルで2008年に遭難したMV Le Joolaの例がある。
前者では4000人以上がそして後者では1800人以上が死亡したが、正確な数は今も分からない。
ましてや乗客名簿を得ることなどは論外である。
MV Dona Pasの遭難の時は筆者もIMO会議に出席しており、IMO事務局長が会議の場で哀悼の意を表し、繰り返し海難報告書の提出を求めたが、フィリッピン政府は公式な報告書を提出することはなかった。
結果的に取り上げた海難は英国及び米国船に偏ることとなった。
Table 1: Maritime disasters from 1852 to 2011.
Duration refers to the time period between the first indication of distress and the sinking. Quick(Slow)implies that the time period was shorter(longer)than 30minutes.
WCF order indicates if the captain gave the WCF order.
これらの個々の海難について、この論文はかなりのページを割いており、資料の得られる範囲で船長及び乗組員の行動についてのべているので、ここではそれらを抜き出してみよう。
Maritime disasters from 1852 to 2011.(クリックすると表が表示されます。)
HMS Birkenhead
英国の兵員輸送船で乗客の多くは陸軍兵士であったが多少の家族も乗船していた。
本船は1852年2月26日南アのケープ・タウン近くの沖合で暗礁にぶつかり沈没したものである。
退船に際して、指揮官のセットン陸軍中佐は“Women and children first”と命令し、サーベルを抜いて避難路を誘導し、規律の維持に努めたと伝えられる。
13人の子供と7 人の女性は全て救命艇に移乗しその後救助された。
将校及び兵士の騎士道的な振る舞いと勇気が“Women and children first”をプロトコルとした最初の事例であると云われている。
SS Arctic
米国の定期客船で1854年9 月21日でカナダのニューフォンドランド沖で濃霧を全速で航海中に他船と衝突、船長は岸に近づくべく全速で航行しようとしたが、これが急速な浸水の原因となり、本船は沈没した。
船長は女性・子供を最初に救命艇に乗せようとしたが、命令は徹底されず現場はパニックとなり、救命艇には乗組員が我勝ちにと乗り込み、結果的に女性・子供は全員死亡した。船長は船が沈むまで船に残ったと伝えられるが、二日後に浮流物にすがっているところを救助された。
SS Golden Gate
本船に関する信頼できる資料は少ない。
1862年7 月27日にサンフランシスコからパナマに向かったが、メキシコのマンザニオ沖で火災が発生した。
消火活動は失敗に終わったため、船長は砂浜に乗り上げ脱出しようとした。
100人は岸に泳いでたどり着いたが、他の乗客や乗組員206人は救命艇や救命器具の絶対数不足により死亡した。
船長は生き残ったが、“Women and children first”を命令したか否かについては何も語らなかった。
この海難では乗客の生存率が38.4%なの対し、乗組員の生存率が65.7%と高い。
SS Northfleet
英国の帆装貨客船で英国/豪州航路に従事していた。
1873年1 月13日にダンジェネス沖で荒天を避けるため錨泊していたが、スペインの汽船に右舷中央部を当て逃げされ大量の浸水の為、30分たらずで沈没した。
船長は浸水を知ると同時に退船命令をだし、“Women and children first”を発令したが、乗客・乗組員はパニックとなり命令は実行されず男性は救命艇に殺到した。
船長は命令を徹底するために武器を使用し、命令を聞かない男性は足を撃たれたという。
殆どの乗客・乗組員はボート・デッキに達したが、救命艇の数は十分ではなかった。
また荒天の為、他船による救助作業も困難を極めた。このため多くの死者がでたが、屈強な男性はマストによじ登り、そこで救助を待ったという。船長は生き残ることはなかった。
RMS Atlantic
タイタニック号と同じThe White Star Lineの社船で同社の最初の大きな海難事故を起こした船である。
1873年3 月本船は811人の乗客と141人の乗組員を載せてリヴァプールからニューヨークに向かっていたが、荒天の為、石炭を大量に消費しショートバンカーの恐れが出てきた。
このため船長はカナダのハリファックスに寄港し補給することとした。
荒天のためか推測位置が大幅にずれており、4月1日ハリファックス沖合の暗礁に衝突し乗り上げた。
浸水したが直ちに沈むことはなく暗礁の上で傾いたまま数日間持ちこたえた。
直ちに退船に掛かったが全ての救命艇を合わせても収容人数は500人で、加えてそのうちの幾隻かは波にさらわれ、また降下の際に船体に衝突し破損してしまった。
そのため乗客はパナニックとなり、また移民である乗客は殆ど英語を理解できず乗組員は実力を行使せざるを得なかった。
三等船客の女性は誰一人ボートデッキにたどり着けなくて全員溺死した。
この海難で船長の行動について疑問が投げかけられたが、助かった乗客の証言によれば船長は海難にさいして冷静で、乗客を安全な船首部に誘導し、また低体温症に対する対策についても指示した。
船長は最後まで船に残り生き残った乗客の全てが安全に上陸出来るように努めた。
船長が“Women and children first”を命令したかどうかは定かではない。
船長は最後に救助された。
査問委員会は船長のリーダーシップと海難発生後、人命を救おうとする勇気を称賛したものの査問委員会は船長の免状を2 年間停止処分とした。
この海難は後年のタイタニック号遭難とよく似たところがあるが、The White Star Lineは何の教訓も得なかったようである。
また女性が全て死亡したのは何とも痛ましい。
SS Princess Alice
1878年9 月3 日テムズ川をロンドン・ブッリジから河口のグレーヴゼンドに向けて航行していた本船は他船と衝突し、船体は二つに折れ、わずか4 分で沈没した。
同船には約800人の乗客と40人の乗組員が乗っていた。
当時テムズ川に航行規則はなかった。
救命艇は十分になかったし、何よりも救命艇を降下する時間が無かった。
殆どの乗客は川へ落ちるか、自ら飛び込んだ。しかし当時は泳げる者は限られていたし、その頃のテムズ川は文字通りドブ川で汚水で窒息死した乗客も多かった。
船長は死亡し、彼の行動については殆どわかっていないが、生存者の証言から退船について何の命令もなかったようである。
SS Norge
デンマークの移民船である本船は1904年6月コペンハーゲンを出港しノルウェーの港を経由してニューヨークへ向かった。
乗客727人の殆どは移民であり乗組員は68人であった。
船長は最短ルートを航行するためイギリス諸島の西方にあるヘレン岩礁の南方を航過するよう針路を定めた。
しかし船長は潮流の影響を過小評価していた。
6月28日本船はまっすぐに岩礁に突っ込み乗り上げた。
損傷は軽微に見えたので、機関を後進にして離礁を試みた。
これが裏目に出てたちまち浸水が激しくなり、船首が突っ込み船尾は高く空中突き出した。船の最後を悟った船長は全員退船を命じた。
しかし過去3 年間全く操練を行っていなかったので、乗組員はどの救命艇を担当するのか混乱した。
また命令や指示はデンマーク語などのスカンジナヴィア語で行われたので、相当数乗っていたロシアの移民たちに混乱が起きた。
しかし全般的には士官の指示に従い秩序ある退船行動がとられたようである。
本船の救命艇の全収容人員は8 隻で251名であった。
乗客及び乗組員の三分の一しか乗れないことになる。船長は“Women and children first”を命じたが、これが実施されたかどうかは記録がない。
救命艇の降下は船体が傾いているため困難を極めたが何とか5隻が降下され乗り移ることが出来た。
遭難場所は陸上に遠くまた船も通らぬ海域であったので、救助されたのは救命艇に乗れた160人のみで635人が溺死した。
船長は生き残り、査問委員会にかけられたが彼の行動は容認され、特に退船活動において乗客及び乗組員の秩序を維持したシーマンシップが評価された。
RMS Titanic
海難から100年経った今年はタイタニック号について映画やTVドキュメンタリー、書籍など多くの情報が溢れているので説明も必要ないと思われる。
同船は1912年4 月サザンプトンからニューヨークへの航行中氷山に衝突して沈没した。
1316人の乗客と885人の乗組員が居たが、救助されたのは712人で生存率は32.2%である。退船にあたり“Women and children first”が命令され、実行された。
結果的に女性の生存率は73.3%、一方男性は26.7%となった。
また子供の生存率は成人のそれよりはるかに高かった。
RMS Empress of Ireland
カナダの遠洋定期船である同船は1914年5月29日ケベックからリヴァプールへ航行中に濃霧の深夜、他船と衝突し、わずか14分で沈没した。
衝突が不可避と判断した船長は“All hands on deck”を号令したため、乗組員は熟睡していた多くの乗客と比べて高い生存率となった。
救命艇は十分な数があったが、船体の傾斜と急激な沈没のためその降下困難であった。
“Women and children first”が発令されたか否かはっきりしないが、女性の生存率は11.3%と極めて低い。船長は救助された。
RMS Lusitania
本船は1915年5月、702人の乗組員と1257人の乗客を乗せてニューヨークを出港しリヴァプールに向かった。
当時既に英国はドイツと交戦しており、ドイツ帝国はイギリスの周辺海域に封鎖海域を設定し、周囲を通過する船舶は警告無しで撃沈するというUボートによる「無制限潜水艦作戦」を実行していた。
しかし同船は護衛船もなく、ただ高速を頼りに航行し5 月7 日アイルランド沖で雷撃をうけ20分程で沈没した。
同船は見張りの強化、救命艇のスタンバイなど警戒を厳重にしていたが、退船にあたっては相当な混乱が生じたという。
船長は“Women and children first”を命令したが、これが実行されたか否かは判然としない。
船長は最後までブリッジに残ったが、最終的に救助された。
SS Principessa Mafalda
本船は1927年10月18日228人の乗組員と971人の乗客を乗せてジェノアからブエノスアイレスへ向けて出港した。
乗客の多くはイタリア、東欧、シリアからの移民であった。
老朽船でメインテナンスも悪く航海の途次、度々故障で停船した。とうとうブラジル沿岸でプロペラシャフトが破損し、これによりプロペラが船尾を破損し破孔を生じて浸水が始まった。
浸水が始まるとともに総員退船が発せられた。
沈没までには4 時間20分あったが、救命艇の整備は殆どなされていなくて、多くの救命艇が使用不能であった。
また乗客の間に貴重品を巡って略奪や争いが起こり現場は混乱を極めた。
一方乗組員は避難にあたって乗客を誘導せず己の脱出に懸命であった。
事実最初の救命艇には40人の乗組員とたった2 人の乗客が乗っていただけだという。
船長が“Women and children first”を発令したかどうか不明であり、船長は死亡した。
この海難で特徴的なのは一等船客の死亡率が二等や三等船客に比べて高いことである。
数人の一等船客は船長とともにブリッジに残り、救命艇に乗ろうとはしなかったという。
SS Vestris
英国船籍の貨客船である本船は1928年11月10日に198人の乗組員、128人の乗客、それに貨物を積載しニューヨークを出港、バルバドスに向かった。
同船はオーバードラフトであり、すでに少し右舷に傾いていた。
出航の翌日荒天に遭遇したが、乾舷が十分に無く浸水が始まり、さらに不適切な積み付けにより貨物が移動し、これが更に事態を悪化させた。
数時間後に同船はヴァージン諸島の沖で沈没した。
退船に際し“Women and children first”が命令されたか否かは分からない。
退船現場は混乱を極めた。乗組員は自分たちの為にもっとも良い救命艇を確保したと後に非難された。
船長は死亡し、貨物の不適切な積み付けについては責任を問われなかったが、もっと早期に救助を要請すれば多くの人命が救われただろうとされた。
SS Morro Castle
1934年9 月5 日、本船は乗客318人、乗組員231人を乗せハヴァナからニューヨークへ復航の途についた。
乗客の殆どはヴァケーションの帰途であった。同船は海難の4 年前に建造され米国東岸でもっとも近代的な船であった。
海難の前日船長は心臓発作の為に亡くなり一等航海士が代行船長となった。
翌8日午前2時40分に船体前部に火災が発生した。
代行船長は事の重大性を認識せずにニューヨークに向けてそのまま走った。
このスピードと風向が火災を煽ることとなり午前4時には消火活動をあきらめ退船を開始した。
同船は十分な数の救命艇を搭載していたが、その多くが火災現場近くにあったため殆ど利用出来なかった。
退船作業は混乱を極めた。
特に船長が死亡したばかりで命令系統が確立していなかったのもその原因である。
乗組員の中には退船命令が出る前に勝手に救命艇を降ろし逃げた者もいる。
代行船長が“Women and children first”を命令した否かは不明である。
多くの乗客は海面に飛び込んだ。
死亡者の多くは溺死である。船室に閉じ込められて焼死したものもあった。
MV Princess Victoria
1953年1月31日ロールオン・ロールオフ・フェリーである本船は128人の乗客と51人の乗組員を乗せてスコットランドからノーザン・アイルランドに向かい、途中ノース海峡にて沈没した。
秒速40メートルに近い強風と荒波のため、船尾のドアーを破られた同船は浸水が激しくなりついには転覆・沈没したのである。
激しい風浪と大きな傾斜の為救命艇にたどり着き、降下するのは非常に困難であったが、船内は比較的平静であったと伝えられている。“Women and children first”が発せられたかは定かでない。
船長もそして女性と子供は全て亡くなった。
SS Admiral Nakhimov
本船は定期客船で1986年8月31日深夜888人の乗客と346人の乗組員を乗せて黒海のノボロシーシクからリゾートタウンであるソチへ向かった。出航すぐにパイロットは本船がバルク・キャリアーと衝突針路にあることに気づきVHFで何度も警告を発した。
しかし本船の船長は避けられると判断し二等航海士に船橋を預け自室で休んだ。
相手船と交信出来た時は既に遅く、両船ともフル・アスターンを令したが相手船が本船の右舷に衝突し破孔から直ちに浸水し右舷に大きく傾いた。
そして直後にブラックアウトとなった。
乗組員は訓練されていたが、暗闇と船体の傾斜のため救命艇の降下は困難でわずかに1 隻の救命艇と24個のうちの8 個の救命筏が使用出来たのみであった。
多くの乗客は海に飛び込んだが、すでに流出した同船の燃料油のため泳ぐことは困難であった。
同船は右舷にひどく傾き僅か7 分で沈没したが、相手船及び他の多数の船により救助活動がなされた。
船長が発した命令は「退船!」のみである。
船長は重大な過失があったとされ15年の禁固に処せられた。
MS Estonia
1994年9 月27日に821人の乗客と168人の乗組員を乗せて、エストニアのタリンからスウェーデンのストックホルムに向かった。
船体の状況は良かったが天候は悪かった。
視界は悪く風速は秒速25メートルにもおよび波高は4 ~ 6 メートルに達していた。
同日深夜波浪のため船首部のバイザーが折損し、大量の海水が貨物デッキに流れ込んだ。
このため同船の下部区画はたちまち満水となり右舷に大きく傾斜した。
最初に異常を察知してから約1時間でレーダーから消え沈没した。
急激な浸水と傾斜の為、船室からボートデッキにたどり着くのは非常に困難で多くの乗客が船体内部で溺死した。
また激しい風浪のため救命艇を降下するのは困難で10隻の救命艇のうち3隻のみがなんとか降下できた。
いくつかの救命筏も使用可能となったが、多くの乗客が低体温症で亡くなった。
全体の生存率は僅か13.9%であった。
遭難時に船長がどのような行動を取ったかは全く不明で、また彼の遺体も発見されなかった。
MS Princess of the Stars
フィリッピンの客船で2008年6 月20日マニラを出港してセブ・シティに向かった。
マニフェストによれば121人の乗組員と626人の乗客となっているが、他の情報で850人乗船していたという。
出航翌日台風に遭遇し、次の日の12時30分に機関不調との遭難信号を発信したのち、乗揚げ荒天の為転覆したが、すぐには沈没せず数日間船首は見えていた。
退船については殆ど情報はないが、退船命令が出たものの荒天と傾斜した船上での移動は難しく、とりわけ子供と高齢者には困難であった。
救命艇の多くは荒天の為、ひっくり返ったり、ダヴィットに絡んだりして使用出来なかった。
多くの乗客は海中に飛び込んだが激しい風浪のため多数の溺死者が出た。
十分な救命艇が搭載されていたのか、定員オーバーでなかったのかについては報告書は何も記載していない。
救命筏もその多くは波に浚われたようである。
事故後の刑事訴追で台風警告が発令されているのにもかかわらず出航を承認した船主に責任があるとされた。
台風は最盛時秒速42メートルにも達していたという。
乗客及び乗組員の全体の生存率はわずかに6.9%であった。
船長がどのような指揮をし、命令を発したか分からないが、船長も死亡した。
MV Bulgaria
本船はロシアのリバー・クルーズ船である。
2011年7 月10日ボルガーを出てヴォルガ河のカザンへ向かった。
本船には36人の乗組員と154人の乗客が乗っていた。
これは明らかに法令違反であった。乗客定員は120人であったからである。
二軸船であったが、一基のエンジンは故障で使えず、また出港時には本船は少し傾いていたという。
出航後約6 時間して本船は雷鳴を伴う荒天に遭遇した。
風速は秒速20メートルにも達した。
船長が大きく回頭しようとしたとき、開放されていた舷窓から大量の水が流れ込み、本船は大きく傾き、ついには転覆しわずか数分で沈没した。
退船行動については良くわからないが、何の警報も出されなかったという。
これは事故後すぐに停電したためであろう。
船長は死亡したこともあり、どのような命令をしたかは不明であるが“Women and Children first”が発令されたとは思えない。
事故の原因は本船の整備不良とされ、船主及び本船を検査した検査官が有罪とされた。
分析の結果と結論
さて、分析の結果を簡単に言うと、女性の生存率は男性のそれと比べると16.7%ポイント低い、あるいは男性の約半分(17.8%対34.5%)の生存率である。それは他の多くの自然災害における女性の生存率の研究で判明した傾向と同じである。
そして乗組員の生存率は乗客のそれよりもはるかに高い。
これは多数の乗組員が殉職したタイタニック号及びルシタニア号のデータを含めても傾向は変わらない。
また船長が船と運命を共にしたのは16件(タイタニック号及びルシタニア号を除く)中7 名である。子供の生存率は最も低い。
この分析の結果、分かったことは船長が“Women and Children first”(WCF)を命令した時は女性の生存率が高いとのある程度の心証を得たことである。
しかしこの命令が出されたのは18隻の内の5 隻のみであり、このデータを以て断定するにはいかない。
とはいえ全ての仮説の検証を踏まえて、この命令が発令された時は女性の生存率は7.3%高くなることを示している。
また女性の生存率に乗組員や乗客の文化的背景やその時の状況が影響を及ぼすか否かについて分析を試みたが、これは明らかに船長の命令があったのか否かによるものであって、女性に優先権が与えられるか否かは文化的な背景などとは関係しないようである。
このことから災害時におけるリーダーの役割は極めて大きいことが示唆される。
ユーゴスラビア紛争(1991年~1995年)に於いて市民が生き長らえた形と避難の方法にリーダーの選択が大きな影響を及ぼしたとの研究がある。
これまでの研究では潜在的に重要な役割を果たす船長について見過ごされてきた嫌いがあると論文の著者はいう。
これについては筆者としては異論もあるが、それはさておき、論文は人々の互恵的行動は必ずしも利他的精神や社会的規範が行動を統制している証拠とはならない、とする。
これは理論的にも実験的にも確かめられている。
すなわち人々は社会規範に従うのはそうしなければ罰が与えられると脅しによるものである。
震災や津波、あるいはテロなどの災害の場合と異なり、海難事故にあっては明確なリーダーが存在する。
船上に在って船長は命令権と実行権を持った指揮官である。
タイタニック号では船長は“Women and children first”を命令し、士官はこの命令に従わなかった男性を撃ったという。
タイタニック号のケースは第三者罰ゲームと呼応するもので、利己的なプレーヤーの資産を他人に譲渡させるためには罰が必要なのである。
この第三者罰ゲームと同様にこの罰はそれを科す者に高くつく、すなわち“Women and children first”は船長が最後まで船に残ることを意味し、多くの場合船長の命と引き換えになるからである。船長が“Women and children first”を命令しない時、これはディクテター・ゲームに似ている。
この場合利己的なプレーヤーは社会的規範に従わないことでこうむる社会的な汚名などのコストと、従うことにより払わなければならないコストを天秤にかけるのである。
分析の結果判ったのは第一次世界大戦の後は男女の生存率の差が三分の一も縮まったことである。
これは女性の社会的地位の向上と明らかに相関関係がある。
しかし英国船においては、他の国の海難船舶より女性の生存率が低いという結果ともなっている。
“Women and children First”(WCF)は英国船で発令される例が多いのにもかかわらず、である。
これは英国人男性が他の国民よりも勇敢であると考えられていることと対照的なことである。
これについては納得いく説明はない。
これまでの研究で言われてきたのとは違い、我々の研究によれば、海難事故の時間的長短、すなわち事故が発生してから沈没などの全損に至るまでの時間と生存率、また社会的規範の有無と生存率の関わりはあまりないと思われる。
この研究ではっきりしたのはタイタニック号の遭難は多くの面で例外的なケースであり、タイタニック号の海難があまりに劇的であったため、災害における人間の行動について世間に誤解を与えてきたことは明らかである。
以上がこの論文の骨子と言っても良いかとおもうが、この論文は“Women and children first”という海上での行動基準、あるいは社会規範について字数を費やしている。
筆者に社会心理学の専門知識があるわけではないが、これは人間の持つ互恵性ないし互恵行動が、社会を形成し維持する大きな要因であり、相互協力関係を維持するような社会規範は罰によって支えられているという近年の考え方に基づくもので、それを検証したいのであろう。
船でいえばこの“Women and children first”のみならず、船長最後離船の義務や他船救助の義務など多くの海上での社会規範があり、それらはシーマンシップでくくることも出来るだろう。
この考え方によれば社会規範を破るような不公正者・規範逸脱者に対しては自らが高いコストを払ってでも罰を与えるという負の互恵行動を行う、利他的罰を行使する者が居なければならない。
これはいうまでもなく船長の責務である。
船長は危険共同体の長として船舶及び乗客・乗組員の安全確保の為に、また生活共同体の長として円滑にかつ安定的に船内社会を維持するために、自らコストを払ってでも必要と認めれば負の互恵行動を起こさねばならない、ということであろうか。