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(社)日本船長協会事務局 |
Cutty Sark号
9月にロンドンで理事会があった。その機会を利用して、グリニッチにある帆船 Cutty Sark号の見学に行った。会員諸兄もご存知のように同船は、長らくグリニッチの顔として保存公開され、多くの見学者を集めていたが、野外展示であることから痛みも激しくなり、一時一般公開を中止し、2006年11月より2008年にかけて、2500万ポンド(現在では邦貨約32億5千万)を投じて大規模な修理と整備をおこなうこととし、あわせて、船の内外装を、もっとも魅力的だったとされる1869年建造当時の状態に復元すべく、その作業が開始された。
ロンドンの海洋会も会のネクタイを作成するに当たり、Cutty Sark号のモチーフを使用する許可をとり、そのお礼として幾ばくかのお金を修復基金へ寄付したことがあった。
当時は Cutty Sark号には名誉船長がおり、City Master Mariners Club の会長を務めていた Capt Simon Waite が就任にしていたので、時々クラブの役員会を同船で開催することもあり、懐かしい船である。
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名誉船長は船上で儀式のある時や、VIPの見学の案内、あるいは子供たちの体験学習の時など、タンツーの号令を掛けたりするんだと云って楽しそうにしていたのを憶えている。今回 Cutty Sark号の再開に伴い新たに発行されたガイドブック“Cutty Sark” Souvenir Guide を読んでいたら、後書きに Capt Simon Waite の書いた記事についても言及があり、嬉しく思った。
Capt Simon Waite は心臓に持病があり、それが理由で海上勤務を早めに切り上げたのだが、その後どうなったのだろうか。
Cutty Sark号の修理作業は順調に進んでいたのだが、2007年5月21日、修復中の船体より火災が発生し鋳鉄製のフレームを残して多くを焼失する被害を生じた。旧式木造船の構造上、防水用のワックスが大量に使用されていたため木製の構造材は消失したものの、さいわいなことに分解修理中だったこともあり、マストやデッキの木材、船首像など装飾品類はすでに取り外されて別の場所で修理を受けていたため、焼失はもとの船体全体の10%程度、オリジナル部分の2%程度と比較的小規模で済んだと聞いている。
出火が人気のない未明であったことから、ロンドン警視庁は不審火の疑いもあるとみて捜査していていたが、最終的には作業現場に放置されていた掃除機の電源の消し忘れによる発火(失火)と確定されたそうである。
火災の後、Cutty Sark号を復元するか廃棄するかについては相当な議論があったよう
であるが、「禍転じて福となす」というか、この火災のため、英国全国民の関心が集まり、多額の寄付が寄せられ、結果的に5000万ポンド(邦貨約65億円)の予算で復元することが決まった。
その後修復作業は順調に進み、2012年4月25日、エリザベス女王によって一般公開の再会が宣言された。新しく公開された Cutty Sark号はこれまでの Cutty Sark号とは全く違う、見るだけでなく触れることも可能であり、液晶パネルが多用され、インターアクティブであり、ダイナミックなマルチメディア方式の博物館である。
館内は至る所に手摺を設け、またエレヴェーターも設置し、障碍者や車いすに配慮がなされている。もっともこのあまりにも今風の博物館には疑問を唱える人達が無いわけではないようだ。
これは船ではなく、船をテーマにした単なる博物館だという。しかし Cutty Sark号を管理する Cutty Sark財団はこの歴史的な商船を恒久的に保存維持するのには単なる修復作業では耐えられないと判断し、1869年(明治2年)に進水した Cutty Sark号を21世紀にふさわしい海事博物館として復活させることとしたそうだ。 それと同時に財政的にも将来にわたって維持出来るように、募金活動や記念品の販売などにも心を配り努力がなされている。ちなみに一般の入場料は£12(約1600円)だが、筆者はグリニッチの国立海洋博物館の支援会員であるところから無料であった。
係員によると見学者は改装以前は年間25万人前後であったが、今回の改装・再開により出足は好調で年間で30万人を超えるのではないかとのことである。
今回の修復作業で最も大きく変わったのは、これまでは船体は直接ドックの底に鎮座していたのだが、今回はこれを3 メートル吊り上げ、ドックの側壁から腕木で支えることとした。そうして水線下の船体は全てまばゆい黄銅で覆い、また水線にあたる部分はガラスの天井を張り巡らした。ドックの中は密閉された空間となり、写真にみるようにカフェを設け見学者にコーヒーや紅茶の他、軽食もサーヴ出来るようにした。見学者は自由にドックの底を歩き回り、飾られているパネルや船首像のコレクッションを見ることが出来る。下から見上げる Cutty Sark号の船体は優美の一言に尽きる。
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Cutty Sark号は Tea Clipperを代表する名船であるが、Tea Clipperとして活躍した期間は短かった。Cutty Sark号の建造された1869年の3 年前には有名な Ariel号とTaeping 号が中国から中国茶を満載して激烈な早着レースを繰り広げたが、この頃が帆船の最盛期であったのだろう。1869年にはアメリカ大陸横断鉄道が開通し、アメリカ東西航路の需要は大幅に減ったが、さらに同年のスエズ運河開通は決定的な打撃を帆船に与えた。
スエズ運河は無風に近く、紅海の風向は北西風が卓越し、また地中海の複雑な風系は大型帆船にとって操船は困難なため、帆船にとって運河の利用は難しかった。1870年には中国茶輸送に就航する英国の Tea Clipperは59隻あったが、1877年にはわずか9隻となったと言う。
1878年には Cutty Sarkの船長は中国でホールドの半分にも満たない中国茶しか集荷出来ず、やむなく石炭を中国から日本へ運んだそうである。この時の日本の寄港地は長崎のようだ。
揚荷後、再び上海に戻り集荷に努力したが、その甲斐もなく中国茶は全て蒸気船に積み取られた。Tea Clipperの時代は終わったのだ。これ以後、Cutty Sark号はトランパーとしてあらゆる貨物を積載し、世界を巡る。
1883年に船主は Cutty Sark号を豪州の羊毛輸送に配船し、あらたな活躍が始まる。豪州はすでにメリノー羊を主とする羊毛産業で世界最大であった。中国茶輸送で常にスピードを競った宿敵 Thermopylae号は既に前年羊毛輸送に就航していた。通常帆船は夏に英国を出港し、豪州のニューキャッスル、シドニーもしくはブリスベーンから羊毛を満載して新年にはロンドンに帰港していた。Cutty Sark号には当時の羊毛を梱包したベールが展示されているが、これは我々が雑貨船で運んだ高度に圧縮された梱包の二倍ぐらいの大きさの比較的ルーズなベールである。
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Cutty Sark号は Wool Clipperとして目覚ましい活躍をする。最初の航海で豪州からロンドンまでわずか84日で帰港したが、これは同時期に豪州を出港した他の帆船の25日も早かったという。特に名船長として語り伝えられる Capt Richard Woodgetの時にはどの船よりも常に早く、最高記録はシドニーからロンドンまで73日だという。この時は当時の最新鋭の蒸気船 Brintania 号を追い越したという。平均時速が何ノットかは確かめ得ないが、瞬間的には20ノットを超えたことであろう。
Woodget船長は早いばかりではなく、ストウェージにも強く、荷役に当たっては船長自身が監督にあたり、積み荷効率をあげた。しかし、これに反発したシドニーの荷役作業員が船長の監督を受けずに5,000ベール以上をホールドに捻じり込んで、Woodget船長の記録を大幅に破り、船長をギャフンと言わせたとの記録も残る。Woodget 船長は当時実用化されたばかりの写真についてもプロの域で、船内には Woodget 船長が撮影した貴重な写真も展示されている。
また同船長の使用した望遠鏡や六分儀、クロノメーターなども展示されている。当時の船長はこうした高価な航海計器を自己負担で購入し乗船したのであろう。
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こうした船長の努力にもかかわらず、本船の採算は悪化し、ついに1895年に Cutty Sark号はポルトガルの船主に捨て値で売却された。
その27年後、1922年に老いさらばえて昔の面影もない変わり果てた Cutty Sark号が英国のFalmouthに姿を現した。これをたまたま目にしたのが、すでに退職した Capt Wilfred Dowman である。彼は16歳でアプレンティスとして、Tea Clipperに乗り、その後船長にまで昇進したのであるが、このボロ船を一目で Cutty Sark号と見抜き、その歴史的な意義を理解し、何としてでも英国の為に買い戻すことを決心した。
私財を投じ、さらに幸いなことには、彼の妻は有名なコートルード一族であったため、彼女の援助もあって Cutty Sark号を買い取ることに成功した。
コートルード一族はロンドンのストランドにあるコートルード・ギャラリーでも名を残しているが、ここにはこのギャラリーの看板とも言うべきマネの「フォリーベルジュールのバー」が掛かっている。
Cutty Sark号はCapt Dowmanの手によって修復され、テムズ河で係留練習船として用いられると共に、観光客にも開放された。
その後紆余曲折があったが、最終的にグリニッチに落ち着いたのである。我が国でも現在明治丸の保存運動が精力的に進められているが、Cutty Sark号のように我が国の国民的な関心を呼び起こし、維持・保存されることを心から祈っている。
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