英国パイロット協会の設立は1884年6 月である。日本では明治17年で前年には鹿鳴館が完成し、欧化政策が始まった頃である。この年、全国組織である英国パイロット協会の設立総会がブリストルで開催された。前年の1883年には英国全土で3,168人のパイロットが存在し、168、418隻の船舶を嚮導し、その収入は427、532ポンドであったという。総会開催時のブリストルのホテル代が10シリング程度で、現在の日本のホテル代をもとに推測すると1 万円程度でないかと思われる。20シリングで1 ポンドであるから、水先料の売り上げは85億円、一隻あたり5 万円程度となるのだろうか。そしてパイロットの平均年収は270万円程度といえるのかもしれない。 総会では初代会長(1st President)には海軍予備役のCommander George Cawley を選出した。これまでは11名の会長が居るが殆どが海運に関係の深い国会議員や軍人・貴族であったが、現在の会長はCaptain DonCockrill で彼自身はロンドン港湾局のパイロットである。 全国組織の協会を設立する直接の動機は強制水先区の問題であるが、協会として水先制度の健全な発展のために法令の改廃について、パイロットの意見を反映する場での代表権を獲得することでもあった。この目論見は成功し、その後水先法の改正や商船法の改正に関与することになる。また互助会組織ではないが、海難事故や災害などで苦境にあるパイロットへの支援も行っている。パイロットの直面する問題は強制水先区の問題はもとより、海難事故における責任・賠償・懲罰、年金や災害補償などの社会保障制度、教育・訓練など取り組まねばならぬ問題は山積していた。またパイロット自身の安全問題ではパイロット・ラダーなどの移乗設備や方法について改良や改善、法制の改正などに積極的に取り組んでいる。 パイロットの訓練と資格認定については英国においては統一的な国家基準はない。 前項の「現行の水先法(1987年)」でも述べた如く1987年の水先法では、パイロットの訓練及び資格認可の基準を設定する権限を所管港務局に与えている。これは明らかに不合理なものと思われ、2011年の秋には英国国会の下院でも取り上げられた。しかし英国運輸省は積極的に改善する意志はないようだが前述の2013年の海上航行法(Marine Navigation Act 2013)によって一部改正をおこないこれで対処しようとしているものの、依然として各地の所管港務局の恣意的な基準に委ねられている。恣意的と言うのは所管港務局に専門家などの十分な人的資源がなく、また経済的な要因もあり、パイロットの教育訓練に費用を掛けたがらないとの指摘である。こうした状況に危機感を戴いているパイロット協会は委員会を設置してこの問題に取り組んでいるようである。 なおIMO においてはパイロットの訓練及び資格証明を包含する国際規定の作成を検討するように求められているが(STCW 条約の1995年の改正条約採択会議における会議決議10)、いまだ作業に着手したとは聞いていない。 2000年の年次総会では、協会の名前をtheUnited Kingdom Maritime Pilots’ Association(UKMPA)と変更した。単にパイロットといえば今や英国でも一般の人々は航空機のパイロットを連想するのだろう。 本書ではこの130年に及ぶUKMPA の歴史と年次総会の資料や水先制度に関わる幾多の挿話などが書かれているが、とても拾いきれないのでこのぐらいにしておきたい。
番外としてヘルゴラント島のパイロットと英国船の話が書かれているので紹介したい。ヘルゴラント島はドイツの北海側のジャーマンバイトのはずれの島である。この島が80年以上にわたって英国の支配をうけていたことは今ではあまり知られていない。ナポレオン戦争の時代に仏軍が北部ヨーロッパの沿岸を征服した時、英国海軍は1807年にこの島を占領した。そして、この島の住民を扇動して密輸やゲリラ戦などおこない、仏軍に対する抵抗をした。ヘルゴラント島の住民はその多くが漁民であるが、時には商船のエルベ河口への水先案内を頼まれることもあった。これはエルベ河のパイロットにとっては職場の侵害となり不愉快極まりないものだった。ヘルゴラント島の住民は19世紀の数十年間は自分達を英国人とみなしていた。これはドイツが東アフリカのザンジバル島を英国に割譲して、ヘルゴラント島をドイツ領として取り戻した後も住民の多くは英国のパスポートを使用していたそうである。 さて、1820年の9 月、英国のBrig(横帆の2 本マストの帆船)New Minerva 号がリヴァプールのCapt. Richard Shaldon の指揮のもと、ハンブルグを目指してやってきた。視界もよく、本船はパイロットを取る為にヘルゴラント島に2.5マイルまで近づいた。ヘルゴラント島のパイロットCapt. Lurhs は他のパイロットとともにボートで本船に接舷し乗船した。そしてエルベ河口までの水先料金として21ポンドを要求した。しかし本船の船長、Capt. Shaldon はこれを拒絶し、代りに5 ポンドを提示した。これでは安すぎるとしてパイロットは島の近くの浅瀬に注意を促した後、ボートで本船を去り、十分な水深のある方向へ向かった。本船船長は最初はこのボートの跡を追ったが、本船の所有する英国の海図にはこの浅瀬が記入されていないところから、近道をするために変針した。この時、島では総督を始め住民が高台に登り、いましも本船が坐洲するのを見物していた。そしてほどなく本船は浅瀬に一旦乗り上げたが、すぐに浮上した。パイロットは直ちに本船に戻った。本船船長が今度はパイロットの支援を必要とすると信じたからである。そして水先料金として168ポンドを要求した。本船船長は再び拒否したので、パイロットは今度は島へ向かった。背後で本船が再び坐洲するのが見えた。夕方の1800時に再度パイロットは支援を申し出たが、本船船長は自分で離洲できると信じてこれも断った。 翌朝本船New Minerva 号はパイロット要請旗を掲げているのが認められた。パイロットは直ちに乗船し、離洲作業とその後のエルベ河口までの水先料金として1000ポンドを要求した。本船船長は100ポンドを提示した。もちろん合意されることはなく、激しいやり取りの後、船長はピストルでパイロットを脅迫した。二人は島に上陸し、船長は英国人総督に苦情を申し立てた。総督は民事に介入出来ないが、パイロットの支援を受けることを勧め、水先料金はハンブルグの仲裁所に任してはいかがかと提案した。双方ともこの提案を同意し、船長は二人のパイロットを選んで錨を使い高潮時に離洲を試みることにした。 しかし、折悪しく天候は悪化し風は浅瀬に向かって吹いているところから、2 回の離洲の試みは失敗し、パイロット達はもはや離洲は不可能と宣言した。 船長は再度上陸し、市庁舎でヘルゴラント島の救助法を調べた。この法によると救助者は救助された貨物の三分の一を要求できることを知った。船長は再度総督の助力を求めたが、総督も再度民事に介入は出来ないと断った。本船船長に残された唯一の選択肢は本船及び貨物の三分の一を諦めるか、全てを失うかであった。船長はハンブルグの保険会社に提訴するとして、しぶしぶ本船及び貨物の救助を委ねた。 総督は通常の法律上の権利を解除して、救助を全島の住民に委ねた。救助者は貨物の三分の一を要求し、彼らのボートを使用して貨物全量を2 、3 日で無傷で陸上に運び上げた。本船は空船となるや否や離洲して再浮上した。本船船長は契約条件が不当であると強く抗議したが無駄だった。 今や老齢のCapt. Richard Shaldon は彼の最後の航海で今まで営々と築き上げてきた自分の財産を全て失ったことをはっきりと自覚した。数日後彼は自分のキャビンであのパイロットを脅迫するのに使ったピストルで自殺した。 本船及び貨物の財産価値は51,000ポンドにも達した。保険会社は三分の一をヘルゴラント島住民に分配することは不当だと強く抗議した。しかしハンブルグの裁判所は本船船長とヘルゴラント島住民との契約は完了し、且つ履行されたと決定した。 これは綿密な調査に基づいた史実だそうである。この挿話を引用したことに他意はないが、パイロットの問題というより救助に関わる問題でこれはなかなか難しいというのが実感である。
以上
参考図書 「大型タンカーの海難救助論」-シー・エンプレス号事件に学ぶ- 成山堂書店 原著者 英国海難調査局 訳著者 浦環、三谷泰久、久葉誠司、坂井信介
「水先責任の一考察」-そのイギリス・アメリカ法との比較- 志津田氏治 1958年 長崎大学学術研究成果リポジトリ
|