第3回 群馬大学教育学部附属小学校

(株)商船三井海務部副部長 大平 徹是

 昨年9月中旬、日本船長協会をお訪ねすると、澤山専務理事(当時)から「今度、船長協会が創立50周年記念事業の一環として企画した「船長、母校へ帰る」という講演会を全国で開催することになったよ。第一番手は菊地会長(当時)の横浜磯子小学校だ。その次ぎには僕も京都の母校で講演する。君の出身は何処?」と、いつもの笑顔ではあるが、決して「いえ、お断りします」とは言わせない気迫で、その日の内にさっそく母校である群馬大学教育学部附属小学校に講演会開催の申し入れをする仕儀となった。

 まずは卒業以来36年振りに母校に電話を入れて見る。応対して下さった教務主任の先生に趣旨を説明し、何とか校長はじめ先生方全員の委員会にて対応をご検討いただくこととした。何しろ、群馬県は「海なし県」、コンテナ船?、船長! いったいどんな話が出るのか、先生方もさぞや半信半疑であったことと思う。一週間ほどして、学校から「子供たちに総合学習の一環として、ぜひ講演をお願いします」とのお返事をいただいた。実施日は12月16日土曜日、今度はこちらが驚く番である。10月の中頃にでも出掛けてお話ししようと思っていた私は、学校ではスケジュールがびっしり詰まっていて、ようやく確保できるのが12月のこの日一日、との学校側の説明に唖然とした。
お話しを伺えば、今は学校も隔週週休2日となったため、そのシワ寄せが毎日の授業に響いているとか。ましてや秋は遠足、運動会と学校ではいろいろな学校行事が目白押しとなる季節、それだけに忙しい日程の中で1日を下さった学校側の「船長、母校へ帰る」講演会への期待をこちらもひしひしと感じ、グッとやる気が湧いて来たと言えばいささか言い過ぎか、一体どうなることやら期待と不安のないまぜ状態!

 学校との第一回目の事前打ち合わせを10月21日の土曜日に行なうこととなった。日頃東京に単身赴任の私は、帰省かたがた懐かしい母校の校門をくぐった。もちろん当時の木造校舎はひとつも残ってはおらず、近代的な校舎に様変わりしているが、校庭の菩提樹は記憶に残っている。当時、私は美術クラブに属しており友人とともに造ったコンクリート製の牛の彫像が、今も校庭の隅に飾られていたのには本当に感激した。
学校もまさか30数年振りに彫像の作製者が訪ねて来ようとは思ってもいなかったことだろう。

 改めて学校側に今回の日本船長協会の企画の説明をする。これにはどうしても船と海のお話から始めないと集まっていただいた先生方からして初めて聞く話ばかりのご様子。何だかさっそく講演会の予行演習が始まった感がなきにしもあらず。その甲斐あってか、学校も「船長、母校へ帰る」に大いに興味を持っていただけたようで、打ち合わせもスムーズに進む。ところが、こちらの考えは、当日4年生以上の高学年に話をしたいというものだ。イメージしている講演の内容からして日本と世界のつながり、私たちの暮らしと貿易のかかわりなど、低学年には荷が重過ぎる。しかし、学校側の要望は、「全校児童にぜひ聞かせてもらいたい」、児童総数892名、教職員の方々50数名も含めて950名を前にお話しせよとのご要望! エライことになってしまった。しかし、こうなれば後には引けない。今の子供たちは何に興味を示すのか、学校の授業では貿易などについてどの程度教えているのか、こちらも情報集めに専念した。

 その後、メールやFAXでのやり取りと第二回目、三回目の打ち合わせを行ない、私の意図するビデオの利用など全体の流れや講演原稿も読んでいただき、聞いていて分かりづらい部分のご指摘も受ける。やはり子供たちはビジュアル的に目に入る物に興味を抱く、船の大きさなどは子供たちの身の回りの物に置き換える方が理解しやすい、説明ばかりでなくクイズなどあれば一層興味が増すなど、貴重なアドバイスもいただけた。

 船長協会や日本船主協会からお預かりしたパンフレット、ポスター、ビデオ類もうまく話の中に取り入れることとした。しかし講演会場となる広い体育館に全校児童が集まれば、小さなOHP(オーバーヘッドプロジェクター)くらいでは何も見えないのではなかろうか、私も心配になってしまう。しかしさすがにIT時代だ、案ずるより産むが易しで、学校は資料をすべてデジタル化してパソコンに取り込み、遠くで見ても鮮明な映像で映すことができた。こうした準備には若い先生方がたいへん積極的に協力していただき本当に感謝している。

 こうしていよいよ12月16日の講演会当日を迎えることとなった。今回は、画家の柳原良平先生も参加していただけることとなり、船長協会から参加の菊地会長(当時)とお二人とも初めての上州前橋の地を踏んでいただいた。
この日、菊地会長ならびに画家の柳原良平先生とともに母校に出向くと、船員の制服姿を初めて目にした子供たちから歓声の声が上がる、子供たちはすこぶる元気だが、私の方はいやが上にも緊張の度合いがピーク状態だ。
講演会は、校長のご挨拶、菊地会長のご挨拶と続き、柳原先生がみんなの目の前でペンを取りマイク片手にコンテナ船を描き始めると、最初はどこから描いているのか皆目私にも分からないのに、5分足らずの内に見事にフルコンテナ船がキャンバスに浮かび上がり子供たちから喝采が上がった。

 私は、ニューヨーク航路コンテナ船の船長としての自分の体験談を交えながら海の素晴らしさや嵐のときの怖さを話し、「これらを乗り越えて船を安全に動かすためには何よりも乗組員全員のチームワークが大切です!」と強調する。パナマ運河の話に触れて、どうしてコンテナ船が山を越えて行くことができるのかクイズを出して見る。これには、一斉に手が挙がり次々に思い思いの答えが出て来る。一年生も懸命に答える。どうやら話の内容も彼らなりに理解してくれているようだ。湖水の水の落差を利用した閘門式運河に全員の驚きと関心が集中する。

 今でも海賊に襲われる危険があるというと子供たち同士、不安げな様子で顔を見合わせている。「それでも私たち船乗りは日本のために荷物を運び続けているのです」と海運の大切さと役割の大きさを説明するとシッカリ頷いている、こちらも彼らの反応にしっかりとした手応えを感じる。さらに、「太平洋の真中でも最近はペットボトルが流れていて大切な海がよごされている。皆さんは地球を汚さない環境にやさしい人になって下さい」と海と地球環境の大切さも全員に訴えた。

 約50分の講演時間は、アッという間に過ぎ、子供たちの反応は質疑応答に形となって現れた。彼らからの質問は、タンカーによる油火災について、外国人と一緒に働く環境のこと、家庭を離れて働くことなどなど、私の話の中でも海運界の核心を突くようなものばかりである。彼らの理解力にこちらも目を見張るばかりである。全校児童からのお礼として我々講師一同に花束を頂戴し、何十年振りかで聞く母校の校歌の詞の一節の「世界をつなぐ青空にやがて飛び立つ力をつくろう」のことば通り、子供たち一人一人が21世紀の日本を作り、世界で活躍することを期待させてくれるものであった。

 講演後にはさっそく、学校を通じて子供たちからたくさんの感想文と質問が寄せられた。感想文には、「コンテナ船の大きさに圧倒された」、「毎日使う電気やガスもみんな船で運ばれる油やLNGで作られる。今まで船がこんなに大切とは知らなかった」など、日頃、船や港に縁遠い子供たちに強い印象を与えた結果となった。
今回、こうした講演の機会を与えてくださった日本船長協会に感謝申し上げるとともに私の経験談が、これから講演される船長諸氏の何がしかのお役に立てればなによりである。

 最後に、子供たちに出したクイズを皆さんにもひとつ!
小麦運搬船(パナマックスバルカーのこと)でアメリカから運んで来る小麦でバターロールパンは何個できますか?
答えは、7個! でも、たったの7個ではありません。日本国民1億2千万人全員にひとり7個づつ配ることができます!

 ありがとうございました。


LastUpDate: 2024-Apr-25