アドリア海のフェリー火災事故
(一社)日本船長協会 副会長 赤塚宏一
2014年の海難は前年と比較して約10%の増 加の1,639件で、死者は418名、行方不明者は 138名というデータがある(HIS Maritime & Trade data)。前年の死者が201名であり、 2014年が大幅に増えたのは言うまでもなく、 4 月に発生した韓国のセウォル号の海難のせ いであろう。さらに、この年始年末の打ち続 く海難事故は海運界にとって暗いニュースと なった。ホーグ・オオサカ号、ケムフィヨル ド号、ノーマン・アトランティック号、バル ク・ジュピター号、また地中海における難民 船の悲劇も後を絶たない。冬の海はとりわけ 厳しい。21世紀の高度な技術をもってしても 自然を制御することは出来ない。ましてやそ の技術を使う人間やシステムに不備があると なれば、私達は自然に対して謙虚にならざる をえない。
ノーマン・アトランティック号(Norman Atlantic)
ここではアドリア海で起きたノーマン・ア
トランティック号の海難について少し状況を
調べてみたい。この海難は日本ではあまり注
目されなかったようであるが、振り返ってみ
る価値はあるであろう。ご存知のように本船
の船長はこの海難の故にイタリア当局に刑事
責任を追及され、これに関連してIFSMA も
マスコミからコメントを求められたからである。
ノーマン・アトランティック号は2009年9
月にイタリアの造船所で建造されたロールオ
ン・ロールオフのフェリーである。船籍はイ
タリア、総トン数は26,904G/T、全長186メー
トル、巡航速度23.5ノット、定員は乗客850名、
車200輌、乗組員は185名とある。船名は2 度
変わり、またオペレーターはこの5 年間に6
度変わっている。最近はイタリアとギリシャ
を結ぶ航路でヴェニス~イグメニツァ~コル
フ~パトラス間に就航している。
事故の概要
本船は事故当時ギリシャのパトラスからイ
タリアのアンコナに向かっていた。12月28日
早朝、午前6 時少し前にカー・デッキから出
火した。途中寄港地のイグメニツァを出帆し
てから30分後であり、コルフ島の北西約44マ
イルの海上である。その時本船には222台の
車両、499人の乗客、55人の乗組員(イタリ
ア人 22名、ギリシャ人 33名)が乗っていた
とされる。というのは乗客名簿は不正確で、
予約した時のもののままで更新されていない
のではないかと言われている。さらに乗客名
簿に載っていない不法移民が居たことも確認
されている。さらに車両の数にも疑問符がつ
いている。
火災による熱気は船内各所に侵入し、上部
にあるレセプション・デッキに居る乗客の靴
をも溶かすほどだったという。海上は20メー
トル以上の疾強風が吹き荒れ、激しく雨が
降っていた。また気温は低く文字通り心身も
凍るようだった。海難はギリシャ領海で発生
したのだが、夜が迫ると共にアルバニアへ向
かって漂流し始めた。犠牲者はこれまでに判
明しただけでも、少なくとも11人が死亡し、
8 人が負傷した。さらに18名の行方は依然と
して不明である。カー・デッキのトラックの
中には不法移民(主としてアフガニスタン人
と思われる)が居たのは確認されているが、
何人死亡したのか、何人脱出したのかはわ
かっていない。通常これらの不法移民は24時
間以上極めて狭いスペースに閉じ込められト
ラックの運転手の手助けが無ければ脱出でき
ないような状況にあるのだそうだ。
乗客によれば火災が発生してから4 時間も
経ってやっと退船の命令がでたという。また
キャビンは煙で充満したにもかかわらず警報
は鳴らなかった。また乗客は乗組員が避難の
手助けを殆どしなかったともいう。乗組員達
は火災でパニックとなり、退船の指揮をとる
とか乗客を誘導するどころか、我先に救命艇
やヘリコプターに殺到し、さながら弱肉強食
のジャングルでまさに地獄を見る思いだった
という乗客もあった。「そこには何の秩序も
なく、順番もなかった。子供達に対して何の
配慮もなされなかった」という。ある49人の
グループは救命艇で退船することが出来たが、
その他の乗客は4 隻の救命艇のうちの2 隻が
火災で焼損したりしていて退船出来なかった
という。救命艇の定員はいずれも160名であっ
た。
またあるトラックの運転手は救助のヘリコ
プターが近づいた時「乗客の誰もが押し合い
圧し合いして、ヘリコプターに少しでも近づ
こうとひしめき合った」「最初に子供、そし
て女性、その後に男性であるべきだが、その
男性たちは力づくでヘリコプターに乗り込も
うとした」と嘆いている。
このフェリーには高名なギリシャのソプラ
ノ歌手であるディミトラ・ティオドッシュも
乗っていたそうである。マリア・カラスの再
来ともよばれるオペラ歌手である。日本にも
何度か来て「椿姫」のタイトル・ロール等を
歌っている。2007年の来日では週刊誌
“AERA” の表紙を飾った。インタヴューで、
「ギリシャに家族を置いて旅から旅への生活
は楽ではないが、日本に来れるのは嬉しい」
と語っていたの覚えている。救助された後、
イタリア紙のインタヴューで「何の警報も鳴
らなかった~これは全くの悲劇だったわ」、
「乗組員は誰もドアをノックしなかった。彼
等は何の助言もしなかった。私達は船室に侵
入して来た煙によって目が覚めたの」と言っ
ている。船内は極めて悲惨な状況にあったよ
うだ。
救助活動は荒天のなか、イタリアのコースト・
ガードの主導のもとにギリシャと連携して行
われた。本船の船長であるCapt A. Giacomazzi
が救助されたのは同日の午後2 時50分であり
火災発生から9 時間近く経っていた。本船船
長が最後の退船者であったという。乗組員の
行動やその訓練についてはかなり問題があっ
たようだが、船長が少なくとも最後離船で
あったことは救いである。
本船は燃え続けたが1 月10日になってやっ
と鎮火に成功し、消防隊が調査のために船内
に入ることが出来た。
事故調査と本船船長
事故調査はイタリア当局によって開始され
た。今回の火災が犯罪行為となるような結果
を回避するに必要な注意義務が尽くされたか
否かを問う、いわゆる刑事過失の有無を問う
ことになるという。有責性のある船舶災害罪
となる可能性がある。またギリシャ当局も初
期の捜査を始めた。放火及び人命を危険にさ
らす恐れのある船舶の航行妨害の立件を念頭
に置いているという。火災の起きた時本船は
公海上を航行していたと思われるが、ギリ
シャの港を出航しイタリアの港に向かったと
ころからEU 規則392/2009により両国に調
査権が与えられる。規則で定めているわけで
はないが、調査がある程度進めば多分両国は
合同で調査を行いそれまでに得られた証拠に
基づき結論を導くのであろう。
事故の原因については、トルコ人の乗客の
一人はアフガニスタンの不法移民が暖をとる
為にカー・デッキで火を焚いているの見たと
報告しているとのことである。あるいは車両
の数も大幅な過剰積載で、十分な車間距離が
取れず、船体の動揺でトラックが船体と接触
し火花を生じこれがガソリンなどの可燃物に
引火したのではないかとも言われている。
本船は事故の10日前にパトラスで検査を受
けたが、その際に6 件の重大な欠陥を指摘さ
れている。非常灯、防火扉、救命器具の不備
などである。船主は15日以内にこれらの欠陥
を是正するように通告されていた。この指摘
に対して是正策が取られたどうかはわかって
いない。
IMO の關水事務局長はこのところのフェ
リー事故の深刻さに鑑み、本年6 月に会合が
予定されている海上安全委員会に対して改善
策の検討を行うように強く要請したが、これ
は当然であろう。
さて、イタリア当局は1 月7 日に早くも船
長に対して刑事訴訟手続きをした。刑事責任
を追及されたのは船長、船主、一等航海士、
二等機関士など6 名である。
刑事訴訟に加え
て乗客の委任を受けた弁護士たちが損害賠償
を求めて民事訴訟の手続きを着々と進め、手
ぐすね引いて待ち受けている。
一方このフェリーの船長Capt A. Giacomazzi
に対しては、イタリヤ海軍の提督Giuseppe
De Giorgi は「この船長は本船に最後まで残
り、乗客・乗組員の退船を見届けた」として
大いに称賛している。これは2012年1 月、イ
タリア中西部のジリオ島沿岸でコスタ・コン
コルディア号(114、500総トン)が座礁した
事故で、無謀な操船をしたこともさることな
がら、乗客の避難誘導より先に船長が本船を
退去したことなどが大きな問題となり、イタ
リアをはじめ各国の世論がその責任を糾弾し
たことを念頭に置いているのであろう。おり
しも過失致死などの罪に問われていたコス
タ・コンコルディア号の元船長スケッティー
ノ被告に対して検察側が禁錮26年を求刑した
ことが分かった。検察側は逃亡する恐れもあ
るとして、禁固26年の求刑とともに3 カ月の
身柄拘束を求めたという。
このイタリアの提督は「伝統的なシーマン
として、船長の義務を威厳と十分なる能力を
以って果たしたことに心からの賛辞を贈りた
い」、そして「彼は最後に船を離れたのだ。
全ての船長がそうであるべきように」と言っ
ている。
しかし、これはコスタ・コンコルディア号
の船長を意識したイタリアのパフォーマンス
としか受け取られないであろう。
ノーマン・アトランティック号の船長はイ
タリア当局の5 時間半に及ぶ尋問において終
始事故の発生から避難の完了まで適切な手順
に従って行動し、対処したとの姿勢を崩さな
かった。警報を鳴らさなかったことについて
は、「火災の発生を知って、最初は乗組員へ
の警報のみに止めた。火災の程度から見て、
火災警報を鳴らすことによって乗客をパニッ
クに陥れないためであった。その後は安全手
順に従って警報を鳴らした」と陳述している。
IFSMA の声明
船長への刑事責任追求にともない、IHS
Maritime(Fairplay などの海事・海運業界
誌を発行する大手出版社)の記者からIFSMA
のコメントを求めてきた。IFSMA が用
意したのは1300語にも及ぶコメントなので、
ここではこれを踏まえたIHS の記事Shipping
Herald の一部を借りてIFSMA の立場
を紹介してみよう。なお、この記事の中で欧
州の刑事訴訟法などに触れているが、もとよ
り筆者はこの分野に詳しいわけでもなく解釈
の誤りや用語の混乱もあることと思うがご容
赦願いたい。
ノーマン・アトランティック号の乗組員に
対する刑事責任追求について海運界の一部で
強く非難されている。IFSMA の会長である
サンデ船長は「イタリア当局の行為を強く非
難する。十分な調査が完了する前に船長を逮
捕するという最近の悪しき慣行は、以前にも
増して船員を常にスケープゴート(贖罪の山
羊)にするという我々の懸念を深めるばかり
だ。そして大衆にショックを与えるような大
事故が起きた時には誰かを悪人に仕立て上げ
る魔女狩りを容易にする手段である。」そし
てさらに「船長は有罪かも知れない、しかし
無罪の推定、すなわち何人も有罪が証明され
るまでは無罪と推定される基本的原則はどう
なるのか」と問いただす。これに対し訴追す
る両国の法律の専門家は有罪の推定ではなく、
調査/取り調べの過程で十分な証拠が得られ
なければ訴訟手続きは変更されるか取り下げ
られるであろう、との見解である。
また乗客の委任を受けたギリシャの民事の
弁護士も「調査が完了する前に訴訟手続きを
取ることは通常行われることである、これは
有罪の推定ではない」という。「これは、そ
こに当該者が潜在的に責任ありと指し示す
“十分な指標―いわゆる証拠ではなく―” sufficient
indicationsーnot evidence があれば訴
訟手続きを取ることが出来る」「簡単に言え
ば、誰かに対して刑事訴訟を起こすには証拠
はいらない。犯罪が行われたと信じることで
足りる。今回の事件では多数の乗客が亡く
なった。このことは船舶運航において何かが
間違っていたことは自明の理である」と言っ
ている。
筆者にはいささか乱暴な手続きのように思
えるが、イタリアの弁護士も「イタリアでは、
犯罪が行われたと思われる状況であれば検察
官は刑事訴訟手続きを始めなければならない。
そして被疑者達の名前を記載しなければなら
ない。本件の場合乗客及び貨物に対して法律
上責任のある人物、それは真っ先に船長が挙
げられる。」と解説している。
一方英国の法律では、刑事訴訟手続きを始
めるには“十分な証拠―十分な指標ではな
く―” sufficient evidence ” not just sufficient
indications が必要である、としている。
このような複雑な法体系の下で働く船員の
立場を説明したうえでサンデ船長は言う、「船
上において何か不都合な事態が発生した時、
その最終的な責任と説明責任を負っている船
長は、疑問の余地のない法律上の責任を負う
のであるが、事故の度に直ちに船長を起訴す
るような安易な慣行は船員志望者を怖気させ
るのみだ。」と非難し、「船員は組合や船員団
体に所属するか自分で保険に入るなどしてこ
うした訴訟に備える必要もあろう。船主や
P&I に見捨てられたら、数百万円を超す法
定費用をまかなうことは恐らく不可能で、船
員に残された方法は法廷で有罪を認め、陪審
員の慈悲を乞うのみだ」と警告している。そ
して船員の働く法的に複雑な環境に鑑みて、
国際的な海事裁判所の設立を提唱している。
さらに、事故の調査と原因究明は可能な限
り迅速に、かつ十分な証拠と事実に基づき行
われ、結果は速やかに公表されるべきである
と強調している。このことにより犠牲者とそ
の家族や友人は何が原因で何が起こったのか
を正確に知り、もってこの恐ろしい経験に区
切りをつけ新しい生活へ踏み出す一助とする
ためである。そして「刑事責任を追及された
船員は多くの場合、事故で亡くなったり傷害
を負った人々と同様に犠牲者なのである」と
結んでいる。
もともとヒューマン・エラーに対して刑罰
を科すことの妥当性は十分に論議されるべき
であると思うが、前述のイタリアの弁護士は
「法廷で船員は事故後の救助活動への貢献度
を勘案して最大限の保護と同情が与えられる
であろう」と言っている。過失で事故を起こ
したことは当然咎められるが、その被害を最
小にしようとする努力は評価し量刑に反映す
る、ということなのであろうか。このような
考え方が合理的なのかどうか筆者には判断出
来ない。いえることはただ一つ、万が一事故
が起きた場合、被害の拡大を防ぎ、損害を最
小限に食い止めるよう最善の努力をすること
であろう。船長となって海難に遭遇した時、
事故を起こしたこと、その事故の重大さにパ
ニックとなり、茫然自失となろうとも、ある
いは頭が真っ白になろうとも、次の日本の船
員法の条文だけは思い出して欲しいものであ
る。これは船長の黄金律である。
(船舶に危険がある場合における処置)
第12条 船長は、自己の指揮する船舶に急迫
した危険があるときは、人命の救助並びに船
舶及び積荷の救助に必要な手段を尽くさなけ
ればならない。
以上
参考文献
Lloyd’s List
Fairplay
Trade Wind
Maritime Today
Shipping Herald