―「川崎・池上町」と「横浜・さとうのふるさと」の不思議な縁―

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私の職場である川崎港は、浅野総一郎が大正から昭和にかけて造成した、扇島と東扇島に代表される大規模な人工島と、東西南北縦横に走る運河から構成され、首都圏のエネルギー輸送を担う大小のタンカーや、原材料船が目まぐるしく行き交います。また横浜港は、コンテナ船・自動車専用船・タンカー・在来貨物船・ばら積船・客船の入出港ばかりでなく、多様な貨物を積載した船と特殊な艦船が出入りし、船種のオンパレードと言える状況です。とりわけ山下公園の対面には、上屋に「さとうのふるさと」と大きく書かれた、粗糖を受け入れるバースがあって、ひときわ目を引きます。ここでは、意外に知られない「池上新田開発」および「砂糖」をテーマに、直線で8km離れる川崎区池上町と鶴見区大黒町の因縁ならびに、なぜ「横浜が砂糖のふるさと」と呼ばれているのか、謎とルーツに迫ります。

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日本への砂糖の伝来は、奈良時代、唐招提寺の開祖 鑑真が、中国から持ち込んだとされ、天平勝宝8年(756)の「東大寺献物帳」に記録が初見、貴重な薬用であったと言われます。疲れたときに服用したのでしょうか?平安から鎌倉時代において、砂糖についての史料はほとんどなく、ようやく室町時代になると、3代将軍 足利義満による明との勘合貿易が盛んになり、茶の湯がさらに発達したことから、砂糖の輸入も増え、羊羹などのお菓子を添えるようになりました。江戸時代に入ると、奄美大島で琉球伝来の黒砂糖が組織的に生産され、薩摩藩はこれを厳しい専売下に置いて、藩の重要な収入源としました。また、薩摩藩が琉球との交易や、砂糖専売による蓄財で実力を蓄えたことにより、結果して、幕藩体制が崩壊することとなります。

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池上氏は平安時代の公卿 藤原忠平(880~949)の末裔といわれ、武州荏原郡千束村(現在の東京都大田区千束)に住んでいましたが、初代 池上宗仲は日蓮に深く帰依し、日蓮宗大本山 池上本門寺を建立します。幸豊の曽祖父 21代幸広は、「水鳥記」に酒豪として登場する豪傑で、池上家の土地7万坪のほか、日蓮ゆかりの品々を本門寺に寄進し、一族郎党を引き連れて、武州橘樹(たちばな)郡大師河原村(現在の川崎市川崎区)に移住します。 その後池上幸広は、多摩川河口に「稲荷新田(現在の川崎区殿町、江川、田町)」を開拓し、名主となりました。新田開発技術は、幸広からその子幸忠、孫幸定へと引き継がれます。享保3年(1718)に産まれた、24代池上太郎左衛門 幸豊は、12歳のときに父幸定を亡くし、家督を引き継ぎました。その2年後の享保17年(1732)大飢饉が発生します。若き幸豊は、村の貧困の原因は耕作面積の絶対的な不足と感じ、大師様を背に、川崎海岸を眺め「遠浅の海を埋め立て、米の取れる土地を増やす」と決意します。延享3年(1746)代官所へ新田800町歩の干拓を願い出ますが、規模があまりに大き過ぎることから許可されず、計画は縮小され、宝暦3年(1753)となって、ようやく15町歩の埋め立てが許可されました。幸豊は家伝書に基づき、干拓に「笹出し」と呼ばれる方法を用いました。それは、干潮で風の強い日に海岸に何箇所も杭を打ち、周辺に笹を立てて砂が集まるようにする工法で、できた砂山を茅や葦を植えて固め、徐々に土地を拡大するというものでした。難工事に767両の費用をかけた結果、宝暦12年(1762)14町歩5反の埋立地を築き、「池上新田」と名づけ、23石の米を収穫しました。池上幸豊は、新田開発だけではなく、これから述べる砂糖の製造法を日本各地に広めたほか、製塩、火薬原料、養魚、人参、梨、葡萄などの殖産興業に、多大な貢献を果たしたスーパーマンでした。
この地は現在「川崎区池上町、池上新町」として、その名残を永遠に留め、また、その後の京浜工業地帯が形成される基礎を築いています。「池上町」の南側2kmにわたる「池上運河」は川崎港1区で、内航セメント船が寄港する「第一セメント」などのほか、「池上運河」が京浜運河と交差する角に、「東洋埠頭」専用ドルフィンがあり、制限喫水12mまでの大型バルカーが入出港します。昨年の当会への水先要請は、「第一セメント」が10回、「東洋埠頭」が120回でした。

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時代は前後しますが、8代将軍 徳川吉宗は、金銀の海外流出を防ぎ、財政を健全化する「享保の改革」の一環として、国産品の使用を奨励し、薩摩藩の家臣からサトウキビ栽培の知識を得て、自ら江戸城内で試植、その普及を考えました。池上幸豊は、新田開発に着手する前の延享5年(1748)ごろから製糖技術を研究しますが、砂糖作りにはまだ成功していませんでした。「池上新田」が完成する前年の宝暦11年(1761)幸豊は、勘定奉行 一色安芸守に、城内のサトウキビ苗譲り受けを申請、許可されます。自身の苗300本、かねて彼と一緒に公儀の下付を受けて試植しつつあった「神奈川宿の忠兵衛」所持の600本、新たに1,000本の下付を受け、栽培を開始しました。しかし、池上新田の塩抜きが不十分で、何度試作を重ねても砂糖にはなりません。幸豊は、江戸一といわれる本草学者に学び研究開発を続ける一方、明和2年(1765)江戸芝永井町の医師 河野三秀と出会い、彼が薦める製糖法で、白砂糖の試作に初めて成功。翌年、武州稲毛村、川崎宿、三宿村、神奈川宿へサトウキビの作付けを増やし、この年の10月、若年寄 田沼意次の日本橋蛎殻町下屋敷で、実際に白砂糖を作って見せ、江戸幕府の厚い信頼を得るようになります。そのころ田沼意次は、大奥で消費される白砂糖が年間250斤、外国へ50,000両の支払いになることで頭を痛めていました。田沼と懇意になった池上幸豊は、明和5年(1768)橘樹郡保土ヶ谷宿帷子村、仏向村の幕府直轄地36町歩を貸与され、サトウキビ大量生産に乗り出し、同時に「名字帯刀」を許されます。また、安永3年(1774)からは千葉、茨城方面を第1回とした和糖製造伝授の旅に出ます。

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この時、幸豊はすでに56歳の高齢でした。安永4年(1775)関西への普及の旅の途中、京都で「和砂糖伝法大意」というマニュアルを著しています。この製法は、四国の讃岐地方で「和三盆」と呼ばれる砂糖として、現在でも受け継がれています。晩年の池上幸豊は、視力を失い口述記録させるほどでしたが、文人としても貴重な記録や随筆を残すなど、川崎の殖産・文化の先駆者となり、寛政10年(1798)当時としては驚くべき81歳の長寿を全うしました。川崎区池上新町2丁目にある汐留稲荷神社は、宝暦11年(1761)に、この地区の守護神として勧進され、境内にその功績を讃える「池上幸豊翁の碑」が建立されています。

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嘉永6年(1853)ペリー提督率いる黒船が、突然浦賀に来航し、日本に開国をせまった6年後の安政6年(1859)横浜は、長崎、函館とともに開港します。江戸幕府は開港により、東海道53次神奈川宿(現在のJR横浜駅から東神奈川駅の一帯)の日本人と外国人が抗争となって、多額の賠償金が請求されることを恐れ、江戸からなるべく離れていることと、水深が深いことから、神奈川宿の隣の横に長い浜にすぎなかった100戸余りの半農半漁の村を、開港場に指定します。これ以後、あわただしく沼地の埋め立てが進められ、うわさを聞きつけた移住者が全国から集まるようになり、元治元年(1864)には、横浜に12,000人の日本人が住むようになりました。また、居留外国人と外国商館で働く中国人も多数来日し、これら外国人居留地と、日本人が住む町を厳格に区分しながら、寒村は都市に変貌していきます。現在でも横浜市中区の地名に残る海岸通・北仲通・本町通・南仲通・弁天通の5筋の道が碁盤の目のように作られました。貿易は開港直後から本格的に始まり、特に生糸の輸出は横浜が独占、茶の輸出も全国の貿易総額の50%を超えていました。輸入も綿製品・毛織物を中心に、大部分が横浜を経由しています。増田嘉兵衛は、天保6年(1835)伊賀上野に産まれ、11歳で孤児となり、大阪が本拠の海産物問屋 榎並屋の小僧に出されます。嘉永5年(1852)江戸日本橋店へ転勤となり、25歳のとき榎並屋横浜店開設に際して、その支配人に任ぜられます。ところが、文久3年(1863)横浜の貿易に進出した豪商に対する攘夷派浪士の脅迫が強まったことから、榎並屋は天誅を恐れ、他の有力商人とともに横浜店を閉鎖します。これを転機に、嘉兵衛は本町2丁目140坪の榎並屋を譲り受け「増田屋嘉兵衛商店」として、海産物、綿布、煙草などを取り扱います。一方、安部幸兵衛は、弘化3年(1846)越中富山の出身で、江戸在住の伯父安部長兵衛の養子となり、安政6年(1859)榎並屋江戸店に仕えます。その後嘉兵衛とともに新設の横浜店に移り、「増田屋」で引き続き働きます。嘉兵衛は慶応年間から、日本人で初めて白砂糖を輸入するなど、砂糖の輸入に本格的に取り組みました。輸入が激増しはじめた砂糖に着目したことは、「増田屋」が急速に、横浜本町の有力商人に成長する要因となりました。明治2年(1869)増田嘉兵衛は、政府によって設立された横浜為替会社(現在の横浜銀行)の役員に、原善三郎(三渓)、茂木惣兵衛と加わります。翌年には、伊藤博文の一行に随って、銀行・為替制度視察のため渡米し、2年後には、わが国で初めての取引所となる「金穀相場会所」を創立するなど、自身の商店経営を超えた財界活動を行いました。明治17年(1884)嘉兵衛は、紙幣整理によって巻き起こされた恐慌を機に、事業の見直しを行い、家業を長男の増蔵に譲ります。「増田屋」の資産の半分を貰い受けた安部幸兵衛も同時に独立し、南仲通3丁目に「増田屋安部幸兵衛商店」を開いて砂糖を取り扱います。増蔵の「増田商店」と幸兵衛の「安部商店」は、着実な経営と豊富な資金力によって、次第に拡大していく輸入砂糖市場を確実に掌握し、他の同業者を引き離して、横浜では突出した業界の有力者となり、「両増田屋」と呼ばれました。明治15年(1882)から19年(1886)にかけては、砂糖が、横浜における輸入貿易総額の20%前後に達します。これは、砂糖の大阪市場が、讃岐・阿波・和泉などの和白糖と薩摩の黒糖を主力に扱い、輸入砂糖の取り扱いに消極的であったためです。増蔵は、明治25年(1892)ごろには、大規模な砂糖元売商としての地位を確立し、東京の砂糖問屋が「増田商店」の特約店として隷属したと言われています。増田増蔵と安部幸兵衛は、明治29年(1896)設立の東洋汽船の発起人となります。「増田商店」は、明治30年(1897)外国部を設け、その後「増田合名」および「増田貿易」と総合商社に発展し、増田増蔵は、横浜商業会議所の副会頭を勤めます。明治39年(1906)には、安部幸兵衛とともに横浜製糖を設立、後に横浜製糖は台湾の明治製糖と合併しました。大正8年(1919)安部幸兵衛は亡くなりますが、故人の遺志により当時の金で100万円が寄付され、横浜高等工業高校(現在の横浜国立大学工学部)が創立されます。ロンドンにまで支店を出し、第1次世界大戦の好況で順調に発展してきた「増田貿易」は、大正9年(1920)3月の株式暴落に端を発する恐慌のあおりを受け、手形決済ができず、同年9月倒産。相前後して増田嘉兵衛は、86歳の天寿を全うしました。このように、江戸時代の「神奈川宿の忠兵衛」を嚆矢とする砂糖の栽培・生産は、横浜で広く行われ、本格的輸入も横浜から始まったことから、その発祥地として「横浜はさとうのふるさと」と言われるようになりました。

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早朝07時15分 私は足船からパナマ籍貨物船SEA UNITY号の高い縄梯子に飛び移りました。「マガンダン・ウマガ」「ウマガ・サー」フィリピン・クルーに挨拶し、上甲板に立つと甘い香りが漂っています。横浜港のシンボル ベイブリッジの北側、横浜港3区大黒町の「太平洋製糖」向けです。総トン数 15,273トン、全長 178m、喫水 6.60mの本船を08時10分無事着岸させま
した。専用ドルフィンに隣接するかまぼこ型の上屋には「横浜・さとうのふるさと」と誇るように書かれています。太平洋製糖の関係会社である塩水港精糖は、安部幸兵衛が資本参加し、明治36年(1903)台湾の「塩水港庁下岸内庄(えんすいこうちょう・しもがんないしょう)」という港の一角に設立された製糖会社です。塩水港精糖は、第2次世界大戦により海外資産の全てを喪失しますが、内地資産を整理継承しながら大阪工場を拠点に社業に励み、昭和41年(1966)溶糖能力1日650トンの横浜工場を竣工しました。しかしながらわが国の砂糖消費量は、昭和48年(1973)の304万トンをピークに、食生活の変化などから漸減し、昭和58年(1983)塩水港製糖、東洋精糖、大洋漁業および丸紅の出資で、太平洋製糖が設立されます。平成9年(1997)塩水港製糖工場内に、砂糖情報発信基地「さとうのふるさと館」がオープン、和糖作りの歴史が展覧され、製糖現場を実体験し、綿あめ作りに挑戦できるなど、横浜・川崎の小学校の社会科見学の定番でした。平成13年(2001)太平洋製糖が塩水港製糖横浜工場の資産を取得し、バース名が「太平洋製糖」に変更、平成16年(2004)「さとうのふるさと館」は諸般の事情から閉館となりました。ちなみに平成19年(2007)当バースの水先要請は46回でした。2月26日JR鶴見駅東口から、市営バスの181系統「横浜さとうのふるさと」行きに乗車、終点で降りると揚荷役中で、バス停までプーンと甘い香りがします。同工場内で、総務部の根本正博副部長に話を伺いました。「当社では、塩水港製糖、東洋精糖、フジ日本精糖3社からの共同製糖受託加工を行っています。年間の粗糖受け入れは17万トン、ほとんどがタイからで、豪州からの船積は年に1回あるかどうか。上屋が映画の撮影に使われるので、有名俳優がよく来ます。以前“赤い靴号”が就航していたころは、バース前に来ると、横浜と砂糖の由来が船内放送されていたんですよ。」

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来年は、横浜開港150周年を迎え、多彩なエベントが企画されているようです。当会横浜事業所でも、横浜港振興協会の依頼により「子どもたちと港を語る事業」に協賛し、既に横浜市内の小・中学校で若手水先人による講演を5回行い、非常に好評です。読者の皆様におかれては、山下公園や赤レンガ倉庫から、是非「横浜・さとうのふるさと」と書かれた顕著物標を確認してください。東京電力横浜火力の2本煙突の隣です。また、大桟橋からは、よしもと興業が運営する港めぐり大型船「ロイヤル ウイング」が就航していますし、リフレッシュされた「氷川丸」のふもとからは「マリン ルージュ」と「マリン シャトル」の僚船が運航し
ています。中華街に足を運ばれたついでに、港内遊覧されることをおすすめします。


LastUpDate: 2019-Feb-07