Project MARTHA
(一社)日本船長協会 副会長 赤塚 宏一
2 月末に開催されたIFSMA の理事会については日本船長協会として二つの懸案があった。
一つは日本の伊豆大島西方海域の船舶交通の整流化の問題である。そして他の一つは海上労働条約(MLC2006)における船長の労働時間適用除外の問題である。
Ⅰ.伊豆大島西方海域の整流化
日本船長協会が昭和45年6 月1 日より自主的に設定し実施している自主分離通航帯は太平洋岸に7 ヶ所ある。この自主分離通航帯は内外共に広く認識され、IFSMA でも高く評価され日本沿岸における船舶の安全航行に大きく寄与してきた。そのうちの伊豆大島西方海域について一定の交通ルールとしての機能をもたせ、石廊崎沖から大島北側付近までの海域を航行する船舶同士の進路交差による衝突リスクの軽減効果を高める具体的な船舶交通の整流化が海上保安庁を中心に検討されてきた。その成案がIMO に提出され、3 月の航行安全・無線通信・捜索救助小委員会(NSCR 4 )で検討されることとなった。
当初のIFSMA の本件に関する対処方針案として回章されたものには、事務局長のCommodore Jim Scorer の見解として推薦航路ではなく、強制化として明確にし、かつ推薦航路をさらに南西方向に延長するように修正してはどうかというものであった。退役英国海軍准将のJim は日本沿岸の航行の経験は無いようで、また軍人として勧告などのあいまいさを嫌うのかもしれないが、これでは日本船長協会を始め長年この問題につき検討してきた日本側の関係者の努力に水を差すことになる。すぐさまメールで事情を説明するとともに理事会で本件につき説明することを申し入れた。
理事会では日本船長協会の自主分離通航帯の説明から始めて、整流化に関する検討の経緯
と手法等を説明し、特に本件については漁業関係者の理解も得られていることを強調した。副事務局長のCapt Owen はかつて香港の船社に長らく勤務し、日本沿岸の航路事情にも詳しく、これまでの経緯も知っているのですぐさま同意してくれ、また日本に寄港したことのある他の船長も漁船が評価してくれるシステムであるなら直ちに導入すべきだと同意してくれた。
IMO での結果はご存知の通り、原案通り承認され6 月の海上安全委員会にて採択される予定となった。
Ⅱ.船長の労働時間規制の適用除外
2006年の海上労働条約(MLC2006)により船長も労働時間規制を受けることとなっているが、2006年のこの条約採択会議においては、船長にも労働時間を適用するかどうかで労使が真っ向から対立した。結果的には国際労働機関事務局が船長に対しては条約の適用を一部緩和することができると解釈することは可能という説明により現在の条約に落ち着いた経緯がある。
1 月に開催された日本船長協会懇談会(船長・航海士)において出席された会員から、船長は規定を超えて働かざるを得ないケースがままある、あるいは規定を遵守し、休息をとるために船長が必要とされる肝心な時に船長が居合わせなかったという例もある。一方で条約の些細な事項を規定違反としてポート・ステート・コントロールで指摘されることもあり、とりわけ豪州のAMSA(豪州海運局)は条約を杓子定規に解釈して是正を要求し運航に支障を来すこともある。また現場に於いては、理解しがたい指摘を寄港国の検査当局から受けた等々、当局側の条約の解釈や執行にも混乱があるようだ、と多くの問題提起があった。「安全のために休息を取得させる」というのは簡単だが、これは本船及び船社だけで解決できる問題ではない。バースの問題も泊地の問題もあろう。言うまでもなく船社は営利企業であり、その運航スケジュールに営業的視点が入るのは当然のことである。真に海上労働の改善を目指すのであれば、MLC2006 の遵守を船社だけではなく、港湾関係者を含む海事業界全体に適用する必要があるとの指摘もされた。
海上労働条約の採択会議では、条約原案のように、このまま船長にも労働時間規制が適用されると航路によっては船長が2 名乗船しなければならないのではないかとの冗談ともつかぬ話が船主側では交わされた。
こうした状況でもあり、IFSMA の理事会で改めて問題提起を試みたのである。このような重大な問題が簡単に合意されるわけもなく、ましてや条約の解釈の柔軟性を確保することや、さらには条約の改正などは遠い先の事であろうが、日本船長協会としてのスタンスははっきりさせておきたいと思った。
理事会では日本船長協会の問題提起を歓迎してくれ、事務局長はこの問題は時間が掛かるであろうから、先ずは運航に支障を来すような実例を多く集め、それを分析し、問題点を指摘し改善につながる方策を考えて行こうと総括してくれた。しかしながらおりしも3年がかりで調査研究が行われた船員の疲労に関するProject MARTHA の最終結果が公表され、その発表会が1 月にIMO で行われたばかりというタイミングに加え、デンマーク及びスウェーデンがこの調査・研究の当事者とあって、船長の疲労問題をどう扱うかとの観点に議論が集中した。
ここでProject MARTHA について少々紹介してみたい。IMO 関係に詳しい方はよくご存じかと思うし、またLloyd’ s List、Fairplay,Trade winds, telegraph そしてSeawaysなどの殆んどの海事関連誌に紹介されたので目にされた方も多いと思う。
Ⅲ.Project MARTHA
船員の仕事量、ストレスそして疲労に関する調査・研究である。これは2013年から2016年と3 年間の月日と300万ドル(約3 億4千万円)を掛けて調査・研究された。この費用は全額TK 財団が負担した。このTK 財団というのはTeekay Shipping Company(現在はTeekay Corporation)の創業者であるデンマークのJ. Torben Karlshoej を記念して2002年にバハマに創立された財団で海事と青少年の育成に資金を提供している。
調査・研究を行ったのは南部デンマーク大学の「海上における健康と社会性に関するセンター」、大連海事大学、スットクホルム大学のストレス・リサーチ・センター、サザンプトン大学及びそのワルシャス海事アカデミー、そして国際船舶管理者協会が名を連ねている。
本誌第433号(平成28年6 月・7 月号)で紹介した「BIMCO・ICS グローバル船員需給調査」でも大連海事大学がProject Teamの一員として参加していたが、今回もこの調査・研究に大きな役割を果たしている。習近平政権の積極的な海洋進出と関連するのかどうなのか知る由もないが、海事社会においても着実にその存在感を強めている。英国の航海学会 “The Royal Institute of Navigation”の会誌 “The Journal of Navigation” に載る論文も毎号毎号半分以上は中国人名である。日本の影はまことに薄く残念である。
このプロジェクトになぜ“MARTHA” という名を付けたのかは2 、3 人に聞いてみたがわからない。報告書の表紙(裏表紙にも)の下に少女の画像があるので、この少女がMARTHA であることは間違いない。
この調査・研究は2012年に発表された同じ船員の疲労に関する調査・研究P r o j e c tH O R I Z O N をさらに発展させたもので、MARTHA の画像の右奥にはその時のロゴ・マークである貨物船が入っている。
最終報告書にはかつての同僚で今は国際船舶管理者協会でIMO 会議担当のCapt PaddyMcKnight(退役英国海軍大佐)の名前を見つけたので、なぜこのProject を“MARTHA”と呼ぶのか照会すると次のような返事が来た。
「スウェーデンにおいては陸上産業のシフト制勤務の健康調査のために多くのソフトウェアが開発された。それはスウェーデン語の略語でARTUR と呼ばれている。スウェーデン語のシフト制勤務者の睡眠・覚醒予測のためのソフトウェアと言った意味の頭文字を取ったものである。このソフトウェアを少々加工して船員労働の調査に用いる時にスウェーデン側はMaritime のM を頭に被せてMARTUR としたが、英語では響きが悪いので英語の女性の名前、“MARTHA” とし、この調査・研究のロゴとして少女の画像を使用した。」というものである。
調査・研究の対象となった船社及び船員は
次のとおりである。
〈欧州で管理されている船社〉
1.小型のプロダクト・タンカー43隻を欧州北西部で運航しており、ほぼ3 日に1 度は寄港する。船員は職員が欧州人で部員は主としてフィリッピン人である。
2.34隻の大型コンテナ船を運航しており、航路は極東~欧州、アジア~南米が主で寄港地と次の寄港地には大洋航海を含むことがある。すなわちこの大洋航海中にはそれなりに休息が取れると想定される。船員は職員が欧州人で部員は多国籍船員である。〈中国で管理されている船社〉
3.中国の国営船社でおよそ400隻のバルク・キャリアを全世界で運航している。
4.同じく中国の国営船社で40隻のタンカーを極東海域で運航している。乗組員は2 社とも職部員全て中国人である。
研究者たちは、これでフィールドの多様性は確保され、海運界の全体像を把握出来るのではないかと信じている。
調査対象となった船員は約1000人で調査手法はアンケート調査、インタヴュー、ボランティアの船員による日記の記載、同じくボランティアに着用してもらったActigraphy(注)のデータなどである。
この調査の分析や統計処理、あるいは研究の手法などのアカデミックな話はさておいて、先に挙げた海事関連誌などの記事や評価をベースに参考になりそうな結果について書いてみる。
(注) 腕時計型小型高感度加速度センサー& ロガーで職場環境・生活環境のストレス、高齢化による心肺機能の低下がおよぼす日中の眠気や睡眠の増加・夜間睡眠の質、及び量変化・シフトワーク・集中行動観察。Q.O.L の指針・睡眠環境(照度・騒音・温度)等の研究に使用される。
船長に対する疲労の影響
関係者の耳目を集める一つの発見は~驚くべきことではないかもしれないが~船長は他の船員と比較して明らかに多くの疲労とストレスに晒されていることである。船長の職務が本船の運航の中枢であることに異論をはさむ人はいないであろう。このプロジェクトは船長の職務が明らかに他の乗組員と違いがあることを実証した。この調査・研究で確認された多くの事実を上げると、船長は
◇週間の労働時間は他の乗組員より明らかに多い。
◇航海中の方が停泊中より負担が大きいと感じている。
◇乗船契約が終了する頃には相当疲労が蓄積する。他の当直勤務者の場合、下船間近になると乗船初期と比べて疲労の蓄積を感じる割合がやや多いとの傾向があるが、船長の場合は下船間近には殆んどが疲労を感じている事実は注目すべきである。
◇他の乗組員と比較して肥満傾向にある。
◇他の乗組員が身体的な疲労を感じるのと違い船長は精神的な疲労を感じている。
夜間当直者(二等航海士がその典型)の睡眠状況は他の乗組員と比較して相当短く問題がある。二等航海士は平均5.6時間/24時間に対し、船長は6.6時間、そして一等航海士、機関長、一等機関士などは6.8時間である。それでもなおかつ船長の疲労感は誰よりも強い。また部員と比較すると職員は一般的に疲労し、低質の睡眠に悩み、明らかに高いレヴェルのストレスに晒されている。
疲労リスク管理システム “FRMS”
報告書は” FRMS” すなわち“Fatigue RiskManagement System” を援用してケース・スタディを行っている。FRMS とは「疲労を安全運航に影響を与えるリスク」 としてとらえ、「体系的に疲労のリスクを回避、 またはマネージメントする」システムと定義されている。このFRMS は安全が最大の要件である他の交通手段の安全確保、とりわけ航空業界では必須の安全管理システムとして導入されている概念だが、海上交通では未だあまり用いられていない。
その要点としてこの報告書が挙げているのは
◇疲労の認識の為の訓練と企業文化の変革のためのプログラム
◇疲労が蓄積したと感じたならそれを報告する責任とそれを受け入れる文化
◇データに基づく分析など科学的知見による疲労リスクの評価、作業量の管理、乗組員の適切な睡眠管理
など極めて初歩的な段階のように思えるが、海難の原因の80% 以上は人的要因と言い慣わしている海運界では、この「疲労リスク管理」は早急に導入すべきものであろう。その意味で、この報告書は日本においてもっと注目されても良いと思われる。