Tower Hill Memorial : 英国の戦没船員
(一社)日本船長協会 副会長 赤塚 宏一
秋の理事会はロンドンのTrinity House にて行われた。I F S M A 本部のあるM a r i n eSociety のビルが改装中の為である。IFSMAの理事会の開催にあたり、このT r i n i t yHouse の会議室 Prince Wales Room を借りることの出来たのは事務局長のJim が昨年までここの航路標識局長を務めていたからである。
Trinity House はロンドンの東部、ロンドン塔を南に臨むTower Hill にある。
Trinity House については、かつてこのIFSMA 便りでも少し紹介したので今回は詳しくは述べないが、1514年にヘンリー八世の勅許により創設され、2014年には創立500周年(!)を祝ったところであり、今も英国王室認可統治下の非政府部門公共機構と言う形で英国の海運・海軍の中に在って揺るぎない一角を占めている。Trinity House は具体的にどのような業務をおこなっているかといえば次の三つが最も重要な役割である。
1.英国公式の灯台管理機関で、イングランド、ウェールズ、チャネル諸島、ジブラルタルの灯台、灯台船、ブイ、海上ラジオ/衛星通信システムなどの航行援助の提供および保守を担当する公共機関
2 .North Sea Pilot の資格や免許を管轄する機関
3 .引退した船員の福祉、若い士官候補生/練習生の訓練や海上での安全性の推進を助成する慈善団体
その昔、日本パイロット協会が訪欧視察団を派遣していたころ、一度在ロンドンの日本船社と訪欧視察団との懇親会をこのTrinityHouse で開催したことがあるので古い会員の中には覚えておられる方もあるかも知れない。
Tower Hill Memorial :The Merchant Navy Memorial
Trinity House の前面はTrinity SquareGarden と称し、ここに英国の戦没船員の慰霊碑がある。この慰霊碑に “Gave their livesfor their country and have no grave but the sea” 「祖国のために命を捧げた彼らは海より他に墓はなし」と刻まれていて、日本でも船員関係者によってこれまで何度か紹介されていると思う。この慰霊碑は第一次及び第二次の両世界大戦の犠牲者を祀ったものである。
第二次世界大戦では日本商船隊及び商船船員は莫大な犠牲を払った。太平洋等において戦争で犠牲となった日本の船員及び船舶数は、日本殉職船員顕彰会がまとめた記録では、100総㌧以下の汽船及び漁船・機帆船等に乗船していた船員を含め60,609名、戦没船の数は7,240隻と公表されている。100総㌧以上の商船の被害は、資料によって若干の差はあるが、約2,500隻、800万総㌧となっている。
開戦直前の1941年12月1 日現在の登簿船舶は100総㌧以上の鋼船2,693隻、630万総㌧で、日本は、米・英に次ぐ世界第3 位の船腹量を誇っていた。そして戦争中に約400万総㌧の船舶を建造した。
終戦時の残存船腹量は汽船796隻、134万総㌧少々、木造船は12,834隻、48万総㌧に過ぎなかった。しかも残存汽船の7 割は粗製濫造の「戦時標準船」で、残りの3 割の大半は老齢不経済船や破損のため使用に耐えず、就航可能な汽船は367隻、66万総㌧という数字もあるが実際に外洋航海に耐えられる稼働可能な船腹は17隻、約12万総㌧であったとも言われる。戦争被害によって喪失した船舶は、その殆どが、日本が世界に誇る優秀な船舶であり、戦争中に建造された船舶は、「戦時標準船」と言って粗悪なもので、これが敗戦によっていくらか残された程度であったことから、日本商船隊は太平洋を墓場に壊滅したと言える。
戦没船員の中には16才未満の少年も数多くいたとのことで、こうした記録を見るたびに胸が塞がる思いである。
日本では観音崎公園の丘の上に顕彰碑が建立され追悼式には天皇・皇后両陛下もご臨席される。また海技教育機構の練習船により船上慰霊式が挙行され、若い実習生達の「追悼のことば」に戦没船員の志や無念さが伝わっていることがよくわかり、元船乗りとして心が慰められる。また神戸港の近くにある「戦没した船と海員の資料館」が開設され、多くの貴重な資料が保存され、公開されているのはこの悲劇を語り継ぐ証として心強い。
英国の戦没船員
一方、英国も第一次世界大戦・第二次世界大戦で大きな犠牲を払った。第二次世界大戦期を通じて英国船の戦争による喪失量は2,426隻、1,133万1,933総㌧、商船船員は英連邦人で船員であった戦没者を除いて、1939年から1945年まで50,525人が直接または間接戦闘の為に死亡したものと推定されている。
Ronald Hope の“A New History of British Shipping” やその他の資料から戦時の英国船員の様子を垣間見てみよう。
商船のうちには5ノットしか速力が出ないものもあり、これが最低速船団のスピードであった。船団を組んで航行する時には海軍から何ほどかの援護があったが、商船乗組員の多くは最も基本的な自己防御、保護手段も持たず、こういう船員たちは、1941年から42年にかけて、敵潜水艦が群れをなす北大西洋を、それ以前の船員が経験したことのない危険を冒しながら航海したのである。積荷の石油は船と周辺の海面を一瞬にして炎の地獄としたし、鉄鉱石やその他戦用品を積んだ船は船体に損傷を受けるや石のように沈んだ。
1942年6 月のアイスランドから主として米国の軍需物資を積んでソ連に向かった英国商船のPQ17船団は悲劇そのものであった。これはスターリンの恫喝まがいの強引な要請により行われたもので、船団は37隻の輸送船、そして輸送船が沈没した時に備え小型客船を改造した特設救難船3 隻からなる船団でこの船団を護衛するのは駆逐艦6 隻、コルベット4 隻、掃海艇3 隻、防空護衛艦2 隻、特設駆潜艇4 隻というこの程度の船団の規模にしては過去になかったほどの強力な布陣であったという。しかし北海、グリーンランド海でこれを待ち伏せていたドイツのU ボート及び雷撃機により甚大な損害をうけ、目的地であるソ連のアルハンゲリスク港に入港出来たのはわずか11隻であったという。
こうした英国船員の悲劇に対し、桂冠詩人のジョン・メイスフィールドは次のような詩を捧げている。
〆Unrecognizesd, you put us in your debt;
Unthanked, you enter, or escape, the grave;
Whether your land remember or forget You saved the land, or died to try to save.〆
〆誰にも知られることなく あなた方は私たちに尽くし、感謝もされずに、 あなた方は命を捨て、また死地に身を投じた。祖国が覚えていようと忘れようと、 あなた方は国を救った”また救おうとして死んだのだ。〆
(三上良造 訳)
この桂冠詩人メイスフィールドは練習船コンウェイ号で商船船員としての実習を行い、帆船で南米のホーン岬を廻ったこともあるそうである。
また、英国の戦時における商船隊の公式史家はA.E. ハウスマンの次の詩句を引用して戦時中の商船船員に賛辞を呈している。
〆What God abandoned, these defended ―
And saved the sum of things for pay.〆
〆神の見捨て給うたものを、彼らは護ったー
そうして多くを救い、後の支払いに遺した〆
( 三上 良造 訳)
敗戦国と戦勝国との違いがあるのであろう。日本はもっぱら戦没船員を悼むが英国は戦没船員を顕彰する傾向が強いと思われる。
そして多分日本とは少し違うのではないかと思われるのは、英国では今も大戦中における商船船員の記録や小説が刊行されている。ここ1 ~ 2 年の間でも数冊が挙げられるが、少し紹介してみよう。
“The Road to Russia” は前述のロシアへの悲劇的な海上補給作戦の詳細で、次に紹介するCapt Bernard Edwards による著作である。
“No passing Place” は今年94歳になる無線通信士の戦時中の日記を彼の孫娘が校閲し編集したものである。そこには英国の戦時中の商船のストレスに満ちた生活が生々しく描かれ、またU ボートにより撃沈された経験も記録されている。
“Lifeline Across the Sea” by David L. Williamsは大戦中の商船船員の貢献に対して正当な評価がなされていないことを憂いた著者が戦時交換船の航海を記録したものである。
第二次世界大戦勃発後、連合国と枢軸国との間に協定が結ばれ残留外交官や民間人、そして重い傷病捕虜の交換のために双方で約50回も交換船が就航したという。
交換船は運航されることに際し、全ての交戦国から交換船に対して国際法に基づき「セーフコンダクト」が与えられ、航路周辺に展開する全ての交戦国の軍隊に対して交換船の運航が通告され、その運航上の安全が保障された。しかし実態は世界各国で激戦が繰り広げられていた最中であり、交換船の運航は困難でしばしば潜水艦や航空機の脅威に晒らされという。
”Lost at Sea, Found at Fukushima~The story of a Japanese POW(Prisoner Of War)” by Andy Millar という本もある。
また” Captive Memories ~Starvation, Disease,Survival” by Meg Parkes and Geoff Gill もあるが、内容の紹介は控えておく。
Capt Bernard Edwards
Nautilus の機関紙 ” telegraph” の9 月号は今年91歳になる現役の作家で元船長のCapt Bernard Edwards の近況を伝えている。
Capt Edwards には既に30冊を超える歴史ものの著作がある。
Capt Edwards は戦争末期の1944年、17才にしてクラン・ラインの貨物船 Clan Murdoch号の実習生となった。そしてその後の11ヵ月は南アフリカ、インド、オーストラリアと文字通り世界の海を回った。
その航海は常にドイツのU ボートの脅威に晒されていた。英国商船隊は大英帝国の海上輸送を担う務めがあった。
常に護衛付きの船団で航行出来るわけでなく、商船も可能な限り武装をしていた。
Capt Edwards も乗船中に船側に備えられた対空砲の射撃手免許を得た。
ある時小さな船団でCape Town から Durban へ航行することとなった。
その時の護衛は武装タグ・ボート一隻であった。しかしあろうことかそのタグが機関故障をおこし、船団はタグを中心に円陣を組み、タグを曳航しつつ何とかDurban に入港したという。
それらの航海はしばしば戦火も浴びたが、幸いに大きな損傷もなく終戦となった。
この11ヶ月の航海により心身共に鍛えられ成長し、クラシックな言い方だが少年として乗船し、青年となって下船した。
その後は2 年間の陸上勤務を経て長年United Arab Shipping の船長を務めた。乗組員は主として英国人とインド人であった。
1984年に57才で退職すると第二のキャリアとして作家の道を選んだ。本人によれば商船学校で唯一成績の良かったのは作文であったからだという。
彼の最初の著作と呼べるもの
はユーモラスな話を集めた短編集であったそうだが、それはそれなりに売れたものの次第に大戦中における商船について書きたい、あるいは書かねばならぬと思うようになった。
彼自身は10代で戦争を経験しているが、本格的に過る大戦の商船隊の役割を書くとなると綿密な調査を必要とする。
近くの図書館を何度か探したが意外にこうした記録や資料はすくない。
Capt Edwards は調査にあたり特に一次資料、大戦中に書かれた記録、公用航海日誌、生存者の記録・証言、そして船員の手紙などを重視した。
これらを求めてロンドン郊外のキュー・ガーデンにあるU K N a t i o n a l Archives (英国国立古文書史料館)に日参するようになった。
そのようにして早くも30年が過ぎたが、最近は特にインターネットを重用している。
高齢の割には電子機器の取り扱いに巧みなのだそうだ。インターネットは世界各国、とりわけ米国の情報が手に入り易いという。
Capt Edwards の凄さは90歳を超えても未だ年に1 冊は新著を出していることだ。
いずれも少なくとも6 ヶ月間の調査を必要とするような著書ばかりである。
昨年出版された “U-Boats Beyond Biscay”(後述)を読んでみれば力強いタレントが仕事をしているのが分かるだろう。
鋭い知性の持ち主が読みやすく、そして小説のように起伏に富んで読者を引き込み、そしてもちろん第二次世界大戦の商船隊の苦闘のメッセージを間違いなく読者に届けるであろう。
Capt Edwards はまだしばらくは仕事を辞める予定はないという。この11月には20隻の商船を廻る大戦の推移を書いた著作が出版される予定であり、今また “The Turn of the Tide” というタイトルで1943年の商船とU ボートとの攻防を描いた著作に取り組んでいる。
Capt Edwards によればまだ数百隻の商船のそれぞれの大戦中のエピソードが誰も書かないままに残っているという。
これらのいまだ書かれざる歴史が少しでも日の目を見るまでは仕事を続けるとのことだ。
この紹介記事の中に“incredible”(信じら
れない)という言葉が出てくるがまさに
incredible である。
なお、Capt. Edward には“Blood and Bushido” という著作もあるが、これは日本人として読むに耐えない。
“U-Boats Beyond Biscay”
この記事に触発されて早速この本を取り寄せた。
これは第二次世界大戦中に連合国側の商船隊を付け狙ったドイツのU ボートと商船隊との攻防の歴史である。
1940年の夏にフランスがナチスの手に落ちたためドイツの海軍や商船はビスケー湾の諸港を通して大西洋と直接結ばれることとなった。
この機に乗じてドイツ海軍総司令官であり潜水艦作戦の第一人者であったデーニッツ海軍元帥は彼の指揮するU ボート艦隊の行動半径を拡大し、遠く地中海やアフリカ沿岸まで出撃した。この海域は通常連合国の商船は単独で航行することが多かった。
この本はこうした背景のもとに苦闘する英国商船の真の姿をその膨大な資料や調査に基づいて書いたものである。
よくここまで調べたものと感心する。全て資料に裏付けされているといえ、Capt Edwards の優れた作家、ストーリーテラーとしての才能は十分に発揮され、読むのは極めて面白い。
語り継ぐ商船船員の悲劇
英国は第二次世界大戦のみならず第一次世界大戦でも商船船員は大きな犠牲を払った。
そしてその悲劇は今も連綿と語り継がれている。
Tower Hill Memorial も両大戦の戦没船員の慰霊碑である。英国人がGreat War と呼ぶ第一次世界大戦はその後の大戦より精神的な面でより強いインパクトがあったように思われる。
歴史や戦記を扱った出版社のカタログでは第一次世界大戦の本が圧倒的に多いし、筆者の好きなピカデリーにあるHatchards 書店でも書棚に並ぶのはヒットラー関連本を除いて、第一次世界大戦の本が多いようだ。
そして100年経った今も第一次世界大戦時の商船船員について書かれ追悼される。第二次世界大戦の商船船員については、戦勝国であった英国は船員を悼むのは勿論、勝利に偉大な貢献をしたという捉えかたが強いように思われる。
また追悼式や慰霊祭などに加えて、戦争の悲惨さを訴えるもののイデオロギーに依らず商船船員に関する各種の記録を出版することも続けられているようだ。
いずれ英国人が両大戦の商船船員の働きをどのように評価し受け止め、犠牲者を悼み、顕彰しているのかもう少し深く調べてみたいと考えている。
どのような形であれ戦争の悲劇を、戦没船員の軌跡を語り継ぐことは残された者の責務であり、戦争忌避のためのもっとも有効な手段と思うからである。
参考資料
「輸送船入門」大内健二 光人社NF 文庫
「英国海運の衰退」ロナルド・ホープ 著
三上良造訳 近藤記念海事財団
「全日本海員組合四十年史: 海上労働運動七十年のあゆみ」
「戦争をよむ~70冊の小説案内~」中川成美 岩波新書
“A New History of British Shipping”Ronald Hope John Murray 社
“telegraph” Published by Nautilus International
“Pen & Sword Books” Catalogue
“U-Boats Beyond Biscay” Bernard Edwards Pen & Sword 社