IFSMA便り NO.64

暗黙知とメンター制度

(一社)日本船長協会 理事 赤塚 宏一



ご挨拶

 5 月20日の総会にて副会長職を退任しました。2005年5 月20日に就任して以来14年間副会長を務めることが出来たことを光栄に思い、あらためて会員諸兄のご支援に感謝する次第です。
 国際船長協会連盟(IFSMA)副会長職がまだしばらく残っていますので、今後は本会の理事として本会の発展に微力を尽くすとともに引き続きIFSMA 及び国際関係に関り「IFSMA 便り」も寄稿するつもりでおります。今後ともよろしくお願い致します。



メンター制度

 今回は海上におけるメンター制度について最近の事情を書きたいと思うのだが、まずは発端となった「海事研究協議会」について簡単に紹介したい。「海事研究協議会」についてはいずれ詳細な報告を本誌上でするつもりでいる。



「海事研究協議会」

 昨年、関西をベースとする「海事研究協議会」が発足したが、この「海事研究協議会」の最初の研究課題は篠原正人福知山公立大学特任教授をリーダーとする「わが国海運を支える海技のあり方と制度改革」であった。
100名近い会員から20名ほどの会員がこのグループに参加し、ほぼ毎月の会合とメールを利用して熱心な討議がなされた。特に日本人海技者が国際的にみても優秀であったのか、優秀であるのか、そうだとしたら日本人海技者の競争優位の根源は何か、これからは海技者が日本人であることに執着すべきか、などについて突っ込んだ議論が交わされた。日本人の海技者が他国の海技者と比較して特に優秀であるという客観的なエビデンスは何もない、という厳しい意見もあった。
 しかし日本の海技者が海運大国・先進国である日本の海運を一面で支えて来たのは事実であり、この優位性はどのようにして醸成され受け継がれ発展してきたのかという過程で暗黙知が焦点となった。しかし暗黙知とは何を指すのか、定義は認証されているのか、海上における暗黙知とは具体的にどのようなものなのか、などとの議論が行われた。これらの議論の総括は報告書にまとめられ、暗黙知についても納得のいく説明が行われている。
この暗黙知の議論の過程で参考として取り上げられたのが、メンター制度である。審議の結果、本年4 月に発表された報告書には次のように記載されている。
「②日本流の船上メンター制度を再開発。
 最近、Nautical Institute において船員の心的安定と職業意識向上のために、メンター制度を取り入れることが議論されている。これは従来、日本の多くの産業において職場で非公式に実施されてきた育成方法を形式知にしようとするものである。
 しかし、日本の海技者が培ってきた手法は、形式化にそぐわない可能性がある。それはもっと「共通体験」の中で、文化的価値観を共有しようとするものである。
 今後議論を重ね、その具体的な態様を編み出していく必要があるだろう。」
 かつての日本船のように全てが日本人船員で運航されるような船舶は存在しなくなり、船内における船員生活も労働環境も船内社会も大きく変わった現在、暗黙知や海技の伝承にそれなりの役割を果たした「肩振り」やティー・タイムやアルコールも少々入ったリラックスした雰囲気での先輩・後輩船員との語らいなども見られなくなったのではないかと思われる。
 こうした状況下でメンター制度が暗黙知・海技の伝承に寄与するのか、そもそもメンター制度とはどのようなものなのか、という基本的な問題について少々考えてみたいと思い、綴ったのが拙稿である。また最近英国のサザンプトン大学での海上におけるメンター制度の調査の概要が発表されたのもタイミングが良かった。



メンターとは

 実はメンター制度について以前にも書いたことがある。それは海洋会会誌「海洋」の2013年5 月号 No.882 に「海上におけるメンター制度」として寄稿したものである。この時は前年のIFSMA 総会でメンター制度が取り上げられたり、またNautical Institute が“MENTORIING AT SEA” を出版したなど海事社会でメンター制度が取り上げられたためである。この6 年前の拙稿なども引用しながらメンター制度について再度整理してみたい。
ウィキペディアによるとメンター(Mentor)という語そのものはホメーロスのオデュッセイアに登場するメントールの名から採られたそうで、メンタリング(Mentoring)とは、人の育成、指導方法の一つで、指示や命令によらず、メンターと呼ばれる指導者が、対話による気づきと助言による被育成者たるプロテジェ(protégé)ないしメンティ(Mentee)本人の自発的・自律的な発達を促す方法である、としている。そしてメンティがメンターから指導・支援・保護されるこの関係をメンター制度ないしメンターシップ(Mentorship)と呼ぶ。
 またウィキペディアは続けて現代の社内でのメンター制度では、豊富な知識と職業経験を有した先輩社員(メンター)が、後輩社員(メンティ) に対して行う個別支援活動である。キャリア形成上の課題解決を援助して個人の成長を支えるとともに、職場内での悩みや問題解決をサポートする役割を果たす。
 組織管理や人材育成において従来のような中央集権型の管理体制の硬直性が指摘されるに至り、よりフレキシブルな末端への権限委譲型の組織管理・人材育成が志向されるようになった。こうした傾向から、上司や上官の指示通り動く人材ではなく、自ら考え判断する能力が強く求められるようになり、自律的な組織・人材を管理・育成するメンタリングの手法は注目されている、としている。
 またコトバンクでは6 年前と全く変わらぬ次の説明を記載している。
 「メンター制度とは、会社や配属部署における上司とは別に指導・相談役となる先輩社員が新入社員をサポートする制度のことをいいます。
 メンターとはもともと助言者という意味であり、年齢や社歴の近い先輩社員が、新入社員の仕事における不安や悩みの解消、業務の指導・育成を担当します。
 新入社員は上司とは別の相談相手ができることで、必要なスキルや技術を身につけながら、会社に馴染むことができます。指導・育成にあたる先輩社員にとっても、マネジメントの技術を身につけるための場であり、大手企業を中心に活用されています。」とある。
 TOEIC のヒアリングの試験でも新入社員が「私のメンターは誰?」という会話で始まる設問があり、欧米ではメンター制度が企業において一般的に制度として導入されていることが伺える。
 下記は5 年前の拙稿の一部であり、あらためてわが国でもメンター制度導入の議論をしても良いと思うが、筆者が知らないだけで、
既に多くの船社にメンター制度を導入されているのかもしれない。Nautical Institute の提唱するメンター制度は、1980年代までの日本船においてはメンタリングなどとは意識せずに、ブリッジで機関室であるいはサロンで行われてきたことではないかと思う。これをメンタリングと意識して、能動的に後継者を育てることは重要である。特に殆どが混乗船となり、日本人船員は船内でもごく少数となった現在は、昔のやり方では後継者を育てることは不可能であろう。暗黙知が船員の技能の多くを占めると指摘される事実を踏まえれば、暗黙知の形式知化の必要性とともに暗黙知の継承を考慮せねばならない。メンター制度について本格的に検討する必要があると思われる。
 なお、この Nautical Institute が出版した“Mentoring at Sea” は米国に帰化した英国人の船長、Capt André L LeGoubin が書いたもので、彼は16歳で船に乗りデッキボーイからスタートし、乗船の傍ら商船学校に通い資格をとり、キュナード汽船やフェリーなどに乗船した。また英仏海峡を走っていたハイドロフォイルの船長も務めたこともある。その後パイロットとしてロンドン港湾局に採用された。しかし陽光降り注ぐフロリダに憧れてアメリカに移住し海事コンサルタントとして働いた。コンサルタントとしては主として海難事故調査や安全対策の確立について貢献した。その間に英国のミドルセックス大学で文学修士号を取得した。現在は艀事業の管理者として働いて居る。この本は修士課程在学中の研究がベースとなっている。彼のように多彩な経歴は欧米、特に英国では珍しいものではないが、多くの異なった分野で働き、その分野の技能を習得するという経験が彼にこの本を書かせた直接の理由のようである。
 この本ではメンター制度を “t h e a c t o f sharing knowledge without a designated reward” としているが、この本を読み進めると彼の定義は「何の見返りも期待せずに経験によって得られた知識(暗黙知)を後継者に伝えること」だと思われる。修士課程における研究がベースと書いたが、社会科学や教育心理学などに根差したアカデミックな本ではない。幅広い海事分野の経験を積んだ船長がメンター制度に重点を置いて書いたエッセーというべきものである。本書には随所に知識の伝達の重要性が多くの海上における事象を捉えて説明されている。そして海上における技能について学校で学べることは必要な知識の三分の一にも満たないとして、経験による知識、そしてその伝承が何より重要と説く。これは期せずして今回のサザンプトン大学の報告書でも指摘されているところである。経験により得られた知識、あるいは暗黙知は学校で得られる形式知と違い言語化するのが困難である。暗黙知は職人の世界などでは、師匠のワザを見て盗むという形で、技能が伝承されてきたが、メンター制度はその暗黙知を少しでも形式知に近づけようとする試みではないかと思う。暗黙知を海上で共有することは極めて重要なのである。
 最近の日本経済新聞に有名な日本旅館「加賀屋」の社長のインタビューが掲載されていたが、社長は会社を良い会社にしたいとの強い思いから「おもてなし」という接客技術の「暗黙知を形式知とする努力を続けています。」とある。ここでも現場での暗黙知は極めて重要と考えられているのであろう。
 “MENTORING AT SEA” の副題はThe 10 Minutes challenge とあり、毎日たとえ10分でも自分の時間を割いて知識の伝達について考えてみよう、実行してみようということである。メンタリングを行う機会は多くあるが、とりわけニヤミスやマイナーな事故の後、あるいはミスを犯す恐れを感じた時には躊躇なく行うべきという。
 また彼は下位職にある後継者を機会があれば上位職を経験させることは有益だと述べている。具体的には状況が許せば一等航海士をブリッジに上げ、投錨ないしは揚錨などを見学させるとか実際にやらせてみせる、さらに本船運航のための重要な決断を行わなければならない時にはまずもって一等航海士の意見を聞きそれらを参考とするとともにその機会をメンタリングに用いることは有効だと言っている。
 「海洋」に寄稿した後、船舶管理を担当しているある船長が日本船長協会を訪ねてきて、メンター制度について意見交換をしたことがある。彼がメンター制度について挙げたのはメインテーマとして「船社(船舶管理)のブランド向上」、サブテーマとして「海上技術力の拡張」であり、そして背後の要因として挙げたのは「経済の一層のグローバリゼーション」であった。
 実際のステップは
1.現場での展開手法
2.シニアからジュニアへ
3.経験者から未経験者へ
4.海技力の強化
5 .社内International Maritime Mentoring Community の設立
6.シミュレーター技術の応用
7.Mentoring のCBT との連携
8 .非公式で、系統立てられてもおらず、標準化もされていないMentoring 技術の認識化
9.インターネットの利用
であった。
 筆者は彼の先見性と緻密な議論の進め方に感心したものだが、6 年たった現在どのような発展をしたのか是非とも知りたいものである。すでに日本で導入されているとすれば、それはきっと日本的なきめ細やかなものであろう。欧州ではメンター制度そのものは会社により業界により独自の解釈やアプローチがなされているのは、下記の報告書の通りである。



サザンプトン大学の海上におけるメンター制度の調査・研究

 サザンプトン大学によるメンター制度の調査・研究については残念ながら報告書の全文が入手出来ないので、ここでは主としてサザンプトン大学の研究チームにより昨年12月にNautilus International (英蘭船舶職員組合)の理事会においてプレゼンされ、機関誌“telegraph” 2 月に報告された記事やその他の情報をもとに再構成する形で書くことにした。なお、この研究は2015年の組合の総会において提案され、Nautilus と ITF の船員基金からの助成金で行われたものである。
 まず同大学の調査・研究チームがメンタリングをどのように定義しているのか見てみよう。英文は “ a fundamental form of human development where one person invests time, energy and personal know-how in assisting the growth and ability of another person ” としている。これは「一人の人間(上司や先輩などが)が時間やエネルギー、個人的な専門知識を授けて、ほかの人間の成長や能力をサポートするという、人材開発の基本的な形」ということであろうか。
 この調査の最も重要なポイントは320人以上の船員及び従業員から得られたサーベイの結果である。これによると「メンター制度についてその説明と役割について相反する見方が存在する」ことが明確となり、メンター制度を構成する要素についても異なる解釈が存在している。
 船員及び練習生の約30% が、彼らの所属する会社にメンター制度が存在すると考えているが、陸上の管理者及び従業員の約59%がその運航する船内においてメンターをサポートするプログラムはないと考えている。

 この研究チームの一員である元船員のサラ・ホーンボンによると船内におけるメンター制度は非常に幅広い多様なシステムで、ある場合には極めてユニークでかつ独自の解釈と理解、そしてアプローチに基づくシステムもあったという。これがまず定義を合意することから始まった理由である。そして研究の目的は多様なメンター制度を調査してそれを通して、船内におけるメンター制度の“Best Practice” を見出すことにある。

 調査によれば ’ On the Job’ で得られる知識は学習経験の中でも最も重要な部分で、個々の船員の技能の70% にものぼる知識がクラス・ルームや正式な訓練以外から得ていると推測されという。そして「船内、あるいは遠隔地にあるメンターによるメンター制度は船員の自信、自尊心、そして順応性を与える手段となる。良いメンタリングは海上で極めて困難な仕事に従事する場合のストレスを軽減する」と記している。
 そして、この調査から雇用者や管理職はメンター制度について従業員の訓練や能力開発、さらに安全文化の発展における有用性を高く評価している事実も明らかになっている。船社・会社によりそれぞれのメンター制度が導入されているが、いずれも肯定的な回答が多く、従業員の健康管理費や福利厚生、スタッフの交代に関わる人件費の節減などに効果があったとしている。これらは、船舶自体の損傷や機器の故障の減少、オフ・ハイヤーとなる機会の減少、乗組員の定着率の向上、KPI(Key Performance Indicators 重要業績評価指標)の向上などである。
 船員はメンターから受けた教育や助言は将来のキャリアの発展に重要だとし、とりわけ陸上勤務を考えるようになった時に有用だと考えている。報告書は陸上職に転身する場合にこれまでのキャリアで得た技能と陸上で必要とされる技能のギャップに気づかされるとしている。そしてサラ・ホーンボンは自身の経験も踏まえ、当然の事ながら職場でどのような待遇を受け、どのような教育訓練がなされ、またその労働環境や雰囲気が一人一人の従業員がその職場に定着するか、また関連職場で働くことを望むのかを決める大きな要因になり、とりわけ海上職ではそれが大きいと言っている。
 この報告書はもちろんメンター制度を運営する問題点も指摘している。すなわち船内における時間的な制約、船員の雇用契約の短期化、頻繁な船員の乗下船などがメンターとメンティ(後輩船員)の関係の確立を困難にし、また学習の障害となっている。雇用者及び管理職は船内におけるメンター制度の実施には多くの困難が伴うことは彼等自身も認識しているが、メンターを務める船舶職員に対するサポートが少ないことを報告書は鋭く指摘している。
 調査の過程で憂慮すべき事態も明るみに出たことも明らかにしているが、それは船員の待遇に差別があったり、一貫性の欠如が結構あることである。例えば初めての乗船勤務や昇進後初めての職位に就いた時、会社から適切な支援や助言を得たと感じるのは55% 程度だというのである。これは深刻な問題であり、とりわけ船員志望者が少ない状況下では真剣に考慮すべきとしている。
 研究チームが認識したのは会社により船舶によりメンター制度にたいする認識や理解がバラバラであることと、船員からのフィードバックから明らかになったのは、訓練を担当する船舶職員の資格と責任を明確にする必要があることである。
 海運関係では幾つかのメンター制度が挙げられているが、この報告書では英国船長協会(Honourable Company of Master Mariners)の制度を高く評価している。これは船員であれば誰でも自由に協会にコンタクトすれば功成り名遂げたベテランの船長が親しく相談にのり、メンターとなる制度のようである。その他にもプリンセス・クルーズの ” PipelineScheme” は部員の職位昇進をサポートする制度である。Seaspan (コンテナ船管理会社)の “Cadet to Command” は海陸共に新入社員を最高幹部に育成するプログラムである。
またWightlink (英国のフェリー会社)には“Bridge the Gap” と呼ばれるメンター制度がある。
 サラ・ホーンボンはプレゼンの最後に「メンター制度はすばらしいツールであるが、これを十分に機能させるのには、制度を管理・運営するしっかりしたプラットフォームを構築する必要がある、船内にメンター制度を採用することを決めたとしても、当然のことながらそれ自身が問題を解決すると期待できるわけではない。メンター制度を機能させるにはシスティマティックに解決しなければならない幾多の問題がある。メンター制度を活用するにはまずリーダーシップと管理技術の見直しが必要であり、技術的問題とそれ以外の問題とのバランス、人事管理システムなどの見直しなども必要であり、何より陸上と海上を分けるようなサイロ思考(組織の中で他の部門や組織全体よりも、自分の部門だけを考える傾向を意味する。この言葉は、穀物を保管するサイロからきている。)を終わらせねばならない」と締めくくっている。
 このプレゼンを受けてNautilus International の事務局長の Mark Dickinson は改めて若年船員をサポートし、彼らが海上職としてあるいは海運関係の企業に長く残ることを奨励する必要性からこの報告書を高く評価し、メンター制度のBest Practice が広く採用さるように働きかけるとともに研究の成果をUK Merchant Navy Training Board (英国の船員養成管理機関)に提出し、また来るIMOでのSTCW 条約の包括的見直しでも審議の過程で活用したいと述べている。



終りに

 この報告書でも明らかであるが、メンター制度の有用性は海運業界でも広く認識され共有されている。報告書でも指摘されているようにメンター制度といっても相当なバリエーションがあるようで、メンター制度の本質をそらさない範囲で、それぞれの会社なり本船にもっとも適切ないわゆる “Best Practice”を構築する必要があるであろう。そのためにはこの報告書も含めてメンター制度について少し突っこんだ研究が必要である。拙稿がそのための何らかのお役に立てば幸いである。



参考文献

1.海事研究協議会研究成果報告書
  『海事社会に注目した課題 −わが国海運を支える海技のあり方と制度改革』
  平成31年4 月9 日 海事研究協議会 https://rcmi.jp
2.「海洋」 2013 MAY No.882 海洋会 19頁
3. “telegraph” February 2019 Nautilus International
4. 日本経済新聞(夕刊) 2019年5 月30日


LastUpDate: 2024-Nov-19