Nautical Institute について
(一社)日本船長協会 理事 赤塚 宏一
これまでたびたびNautical Institute( 以後 NI) について言及してきたが、NI そのものを紹介はしなかった。NI の今年の年次総会が6 月に香港で開催され、それに出席したChief Executive のCapt. John Lloyd が本国への帰途、東京に立ち寄ることとなり、是非会いたいとの連絡があった。筆者はたまたま当会の国際法に関する会合のため上京中であったのでゆっくり話をすることが出来た。これを機会にNI を紹介することとした次第である。
N I の和訳だが、日本語として馴染んでいるものは無さそうだ。英国航海学会と訳す向きもあるようだが、英国にはれっきとした “Royal Institute of Navigation (RIN)”という1947年創立の由緒正しき航海学会がある。余談だが最近はRINの論文集である“Journal of Navigation” に掲載される論文の6 ~ 7 割は中国人の論文のようでしかも宇宙・航空関係の論文が圧倒的におおくなり、読むのも理解するのも困難になってきた。
NI については航海協会とか海技研究所としては如何かとの意見もあるが、なかなかしっくりした訳語は見つからないので本稿ではNI で通したい。
1 .NI の設立
N I の歴史だが、これにはついては、 “A Nautical Odyssey A history of the Nautical Institute 1972-2002 Its people, Policies and Presence”
というNI の正史ともいうべき書籍がある。これは2003年にロンドンで出版された日本の菊版(縦150㎜×横220㎜)程度の大きさで約320ページの大著である。著者は長年英国海軍に務め、1984年から1998年までNI の事務局次長を務めたMichael John Plumridge で文字通りNI の生き字引ともいうべき人物である。主としてこの書籍に基づいてNI 設立当時の事情を述べてみよう。
長らく栄華を誇った英国海軍も第二次世界大戦後を分岐点として徐々に衰退に向かった。
そしていわゆる海運大革命、1957年から1973年にかけての遠洋客船の消滅、バルクキャリアの大型専業化、タンカーの巨大化、そしてコンテナ化の加速など、流れに乗り切れなかった英国海運は衰退の一途をたどった。これにより船員社会においても船員の解雇や賃下げ、福利厚生制度の劣化、そして頻発する山猫ストライキ、若年層の離職率の増加など深刻な危機に見舞われた。一部の船主はこれに対して便宜置籍船の導入、そして低賃金と低質な労働力の導入で対抗しようとしたが、もちろんこのような対策は事態を悪化させる以外のなにものでもなかった。そして1966年5 月、海運業界としては1911年以来初めてという組合公認のストライキが起こった。このストライキは47日間続き、最終段階では900隻近くが不稼働になったと言われる。このストライキの後遺症は長く船員社会にも及び船員のモラルの荒廃や資質低下につながった。
英国は過去150年にわたって世界の大海運国であり続けたが、この全期間を通じて、海運会社は船員の教育・訓練について全く又は殆ど関心を持たず、乗船中の乗組員の人的管理についての関心はゼロであった。また造船を別にすれば、学術関係者の間で海事について関心を持つ人は殆ど居なかったという。
こうした事態を憂えた関係者は海事協会(マリン・ソサエティ)を拠点として委員会を組織し会合を重ねた。
この委員会の1967年の議事録にはいくつかの案が示されているが、それらは、「航海・船舶運航に関する実利を重視した学会」、「‘ I n s t i t u t e o f M a r i n e Engineers’ と同様かあるいは同種の研究組織」と言ったものである。そして委員会は事務局に対してメモランダムの草案策定を求めた。事務局はワーキンググループを立ち上げCapt. CW Malins を議長としてまとめ同年の11月に委員会にて承認されたのが、図に示すメモランダムである。表題は “Regarding t h e n e e d f o r a N a u t i c a l P r o f e s s i o n a l Institute” であり、その内容をごく簡単に要約してみると
●英国が世界の海運界で主導的な地位を維持しようとするのであれば、その商船隊の士官は最高の資質と職業的な能力のあることが認識されなければならない。
●これまでの士官の能力は資格取得のため法律で要求される海上に於ける安全を確保するための学問的な知識が主であった。しかしこれからは時代に即したより実際的かつ最適な知識が求められる。
●英国各地で数多い商船教育機関が航海・機関・無線通信などの教育・訓練を行っているが、今後の教育・訓練のあり方を示すような卓越した機関はない。
●多くの海事教育・訓練に関する機関や団体・組織がありそれぞれが活動しているのは事実である。
●しかしながら‘The Institute of Marine Engineers’ は別として、真に権威ある機関は存在しない。
●“Institute of Marine Engineers” も含めて全ての商船士官の専門的な興味や利益を包含するような中央の組織・団体が出来れば、これは英国海運の効率化に寄与するのみならず20世紀における英国海運の地位を強化するであろう。
このメモランダムに基づいて創立されたのがNI であるが、その様子を英国海運史の今や古典とも言うべき “A New History of British Shipping” by Ronald Hope 、そしてその一部を「英国海運の衰退」として訳出された元日本船主協会常務理事の三上良三氏の書籍から引用してみる。「部員と同様に職員も個々船社とクローズドショップ協定を結び海事協会(マリン・ソサエティ)の支援を受け、海運連盟及び商船・航空職員組合等労使上部団体の強い反対を押し切って、1968年にノーティカル・インスティテュートと称する組織を設立した。この組織によって航海士は初めて労働組合とは全く別の職域団体を持つことになり、これを通じて航海士教育を施したり、政府に提言したりすることが出来るようになったのである。」
これには少々説明がいるのかもしれないが、確かに労働組合等は新しい組織に好意的ではなかったが、彼らが懸念するような第二組合ではないし、労働問題にかかわるようなことは全くなかったといえる。NI は一貫して船舶職員及び海事関係者の人材開発を目的としてきたと言える。
なお、初代の会長はCaptain Sir George Barnard でまた初代事務局長はMr Julian Parker である。ちなみに初代の事務局長の年収は£3,250とある。M r P a r k e r は現在IFSMA の名誉会員である。
2 .NI の組織及び活動
NI はロンドンのテムズ川ランベス橋に続くランベス ロードにあるマリン・ソサエティの建物の一角に本部を置いている。マリン・ソサエティはIMO 本部から徒歩7 ~ 8 分で、昨年までIFSMA もマリン・ソサエティにあり、会議の合間にNI に顔を出すことも出来た。
現在のNI の会長はCaptain N Nash でPrincess Cruises で14年も船長を務めているヴェテランである。Princess Cruises が現在建造中の最大の客船の初代船長に決まっているそうである。事務局長は今回来日したCapt. Lloyd でChief executive というタイトルになっている。出版及び会員部門のDirector は Ms Bridget Horgan で、彼女は1990年代、国際的な海運業界紙 Lloyd ‘s List の記者であった。彼女の署名記事が週に3~4 本掲載され、筆者は殆ど目を通していたし、会ったこともある。先年久しぶりに会うと「昔の愛読者に会うのは嬉しいけれど一寸怖い気もするわ」と言っていた。
NI の現在は今年の年報によると会員数は2018年時点で6750人だが、今年はすでに7,000人を超えたという。NI の会員はグループ会員もあるが、個人会員が原則で幾つかのグレードを設けている。
●Fellow( FNI)
●Associate Fellow( AFNI)
●Member (MNI)
●Associate Member( AMNI)
などである。このあたりはいかにも英国的なやり方だと思うのだが、グレードの違いは即ち会費の違いで、ちなみに今年のFNI の年会費は£161 (約22,500円)である。
地域別の会員数を見てみると欧州が3598人、そのうち英国は2381人、アジアは1269人、豪州及びニュージーランドは560人、北米 667人、南米 237人、そしてアフリカ 372人となっている。そして日本も含めて56ヶ国に支部がある。アジアではインドに多くの会員があり、インド国内の支部も5 ヶ所もある。インドでは旧宗主国である英国の団体や学会の会員となることはある種のステータスのようであり、NI の活動にも熱心であり、3 代か4 代前の会長はインド人船長であったし、現在も理事会に2~3 人、名前を連ねている。
NI の予算規模は、会費、各種のセミナーや認証業務、図書の売上、投資利得、寄付などすべて入れると収入が約320万ポンド(約4 億5 千万円)にも及びIFSMA の30倍にもなる。Financial Muscle という表現があるが、どだいIFSMA とは筋肉量が圧倒的に違う。しかし海技者の団体がこれだけのFinancial Muscle を持ってることは心強い。
N I の「戦略プラン 2016年~2020年」を見ると、憲章に掲げられたNI の目的は
(1)NI は独立した国際団体であって、海事に関わる職業の振興と地位の向上を目指す。
(2) NI の目的は航海技術及び海事科学の教育と研究である。
(3) NI はその目的を達成するためにあらゆる手段をとる権限を持つ。それは
●船舶の運航のための資格・能力及び知識の水準向上のための奨励と振興
●航海技術・船舶運航に関する研究や出版の奨励、それらの動向や情報の交換
●航海技術情報の交換、参考書籍・調査研究報告の出版の便宜供与
●会員の教育や資格に関する基準の策定と確立
●政府及び政府機関、大学を始めとする海事教育機関との連携・交流・提言など
●世界各国における支部の設立の奨励及び促進
(4) 安全と効率的な船舶運航のための会員や支部などの専門的な意見や情報の収集と意見の反映
(5) 組合活動や労使交渉等会員を拘束するいかなる活動もNI として関与しない。
図にあるダイアグラムを見ると活動の中心にIMO が置かれている。しかし、NI は長らくIMO のNGO 資格を持たず、IMO の各種委員会にはIFSMA のアンダーウィングで出席していたのだが、数年前にNGO 資格が承認されると新たにCapt. J. Dickinson を雇用してIMO への代表とした経緯がある。
現在のNI の活動はDynamic Positioning System (自動船位保持システム)オペレーターの訓練やIce Navigation Certification 等の認証業務が大きな比重を占めているが、これらについては別の機会に紹介することにしたい。
3 .出版物
N I の会誌は “S e a w a y s” で月刊である。A 4 版で毎号40ページ弱、Capt Lloyd の巻頭言、各支部の報告、読者の投稿欄の他は、主として会員のそれぞれの専門家が寄稿している。7 月号は“Sharing expertise” が主要記事で前月号で紹介したメンター制度について、調査・研究にあたったSolent University の研究員達が“ Mentoring seafarers” と題して投稿している。そのほか、“S a f e t y c o l u m n – W h a t failure has taught me”、 “Working for safer industry” などメンター制度に関する記事がある。
他に “Women in maritime – All hands on deck” なる記事はニューサウスウェールズ州のニューキャッスル港のハーバーマスターである Jeanine Drummond がIMO の World Maritime Day に関連して、最近の海事・海運産業における女性陣の活躍について報告している。そのなかで女性船員は世界の120万といわれる船員のうちの2 %、そしてその94% がクルーズ船で働いていると言っている。
会誌の中ほどにはMariners’ Alerting and Reporting Scheme” すなわち “mars” と称するページを設け事故例やヒヤリハットを報告している。
“The Navigator” はNI と Royal Institute of Navigation が共同で編集発行するフリーペーパーで10万部、年に3 回発行され、世界中の船員に配布することを目標としている。現在は “International Foundation for Aids to Navigation” なる団体がスポンサーとなっている。日本にも送られてきている。“Seaways” と同じくA 4 版で10ページ程度、 “S h i p h a n d l i n g”、 “N a v i g a t i o n assessments”、 “Mentoring”、 “Weather” など毎号実用的な特集が組まれている。
I の出版物については毎年 “Publications and Services” というカタログが発行されるが、2019年には比較的新しい参考書が約50冊程紹介されている。NI の書籍は実用的な参考書として評価は高い。
4 .NI と日本
日本にもNI 会員は30名程度いると思われ、日本支部として事務局を神戸大学海事科学部内におき古荘雅生教授を支部長としてとしているが、残念ながら長らく冬眠状態にある。なお在日英国人の会員も若干名いる。海運・造船大国である日本におけるNI の知名度の低さ、プレゼンスの希薄さを案じるN I は、筆者の知る限りこれまでに2 回会長が来日して日本のNI 会員と会食などをしている。
NI の活動が日本ではなかなか活発化しないのは、このような組織の必要性が低いからであろう。国際的な情報はNI に頼らなくても十分に得られるし、日本船社の持つ世界的に張り巡らされた情報ネットワークは必要にして十分なものであろう。また海技者の自己啓発も会社や団体などが主導して行われているのではないだろうか。
NI は個人会員が基本であるので、支部を作り会合やセミナーを行うにしても基本的には個人個人の負担となるところから、活動しにくい面もあるのではないか。
そのなかでClass NK の斎藤直樹船長を中心にNI の活動を日本でも活性化しようという動きがあり、そうなれば筆者も全面的に協力したいと思っている。ClassNK 自体もその認証業務や教育・訓練に関連してNI と緊密な情報交換をしている。
日本の外航船員の数も2000人強で推移して何年にもなる。この先大幅に増えると考えるのは現実的ではないだろう。船員数の減少にともない海技者の裾野も狭まりつつあるのではないか。これからは量的拡大が見込めないとすれば、さらに海技者の個人個人の質の向上をはかりわが国の海運・海事社会を支える必要がある。NI の日本での活動を強化するのも一つの方法だと思うが、日本の船員社会・海事社会のこれまでの知の蓄積を生かし、日本版NI を創設し、あるいは既存の組織を拡幅しNI と緊密に連携するのも一つの方向ではないだろうか。
おわりにCaptain Lloyd が帰国後送ってくれた日本の海技者に対するメッセージを掲げて終わることとしたい。
赤塚船長
この度の私の日本訪問に際し、こうして書面にて、日本の海事産業とりわけ海上で、また陸上で船舶運航・管理に従事し、そのエクスパートである皆様にご挨拶する機会を得たことを大変嬉しく思います。これを書くにあたり、海上での安全性を向上させ、高水準の専門能力を促進し、またそうすることによって海洋環境の保護を支援するという私たちの取り組みにおいて、NI が世界中の船員を代表していることを自覚しています。
国際海事機関でNGO の地位を持つ指導的な専門機関として、世界中の会員を通して、また広範囲にわたる海運業界とのネットワークを通して貢献していることを私たちは誇りに思っています。
NI は月刊の専門誌「Seaways」を発行し、全会員に配布しています。安全性を高め、安全文化の確立のために、多岐にわたる航海についての書籍も発行しています。船員によって船員のために書かれた、非常に実用的な書籍です。
N I はその他にも特別な企画をいくつか行っていますが、年3 回世界中に配布されているNavigator 誌もそのひとつです。毎号約10万部発行され、まさに世界的な影響を与えています。
日本の船員たちとの交流をさらに深め、会員が増えることを私たちは喜ばしく思います。日本の海事産業については、常に安全かつ効率的に運航することを追求し実現しているという揺るぎない名声がありますが、それは私
たちも重要視していることです。それゆえ、日本船長協会会員にご挨拶できることを大変嬉しく思い、海上の安全を促進し、私たちの偉大な海事産業の発展とさらなる前進の好機を掴むために常に最新の情報を確保出来るように共に取り組む道を見つけられるよう願っています。
敬具
ジョン・ロイド船長 NI 特別会員(FNI)最高経営責任者
Dear Captain Akatsuka,
My visit to Japan gives me the ideal opportunity to write to you and to extend my greetings to all in the maritime community of Japan and especially those with a sea-going and operational perspective. In writing, I am mindful that The Nautical Institute represents mariners globally in our drive to improve safety at sea, to promote high levels of professional competence and by doing so help protect the marine environment.
As a leading professional organisation with NGO status at the IMO, we are proud of the contribution we make through our world-wide membership and through the extensive networking engagements with industry.
The Nautical Instituteproduces a monthly professional journal called Seaways’ which goes to all of our members; we also publish a range of nautical books designed to enhance safety and strengthen safety-culture.Our books are very practical in nature, written by mariners for mariners.
The Nautical Institute also runs a number of special projects including The Navigator magazine which is distributed worldwide three times a year. With nearly 100,000 copies printed for each edition, we have a truly global impact.
We would welcome further engagement and membership from the mariners in Japan. The maritime community in Japan has a strong reputation for wishing to operate safely and effectively, values we share. So it is my pleasure to extend greetings to the members of the Japanese Captains Association and I hope we can find ways of working together to promote maritime safety and ensure we are all up-to-date with the developments and opportunities in our great industry.
With very best regards
John
Captain John Lloyd FNI
Chief Executive Officer,The Nautical Institute
参考文献
1 .Nautical Institute https://www.nautinst.org/
2 .“A Nautical Odyssey A history of the Nautical Institute 1972-2002 Its people,Policies and Presence” by Michael Plumridge FNI London 2003
3 .“A New History of British Shipping” by Ronald Hope John Murray London 1990
4 .「英国海運の衰退」 三上良三訳 財団法人 近藤記念海事財団 1993年